村上春樹における文学と政治 ―デタッチメントとコミットメント
- 2014/12/9
- 社会
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【文学と政治】
福田恆存の古典的名文『一匹と九十九匹 ―ひとつの反時代的考察』(初出1946年)は文学と政治をテーマにしている。『ルカ伝第15章』にある「九十九匹の羊を野においても、一匹の迷える羊を救おうとする」イエスの比喩を、福田恆存は政治と文学の問題として解釈しなおす。九十九匹を救う政治が救えない一匹がある。その一匹を救うのが文学なのだ。しかし悪しき政治が十匹しか救えないとき、その一匹は残余の九十匹の中に紛れ込んでしまう。文学と政治が混乱するのだ。「政治は政治のことばで文学を理解しようとして文学を殺し、文学は文学のことばで政治を理解しようとして政治を殺してしまふ」(同書)と福田恆存は言う。
問題の相対的解決を模索する政治は「知性」の営みであり、相対的であるがゆえに、そこでは多元連立方程式が必要になる。これに対し個人の絶対性を追求する営みが文学の「思想」なのだ。その孤立した個人に歴史や時代精神が反映されていることはいうまでもない。
そしてその個人のエゴを克服する途へと問題は進むが、ここではそこまで深入りしないでおこう。
福田恆存はまず文学と政治の峻別を要求する。福田恆存はそのことによって、1950~60年代当時のいわゆる進歩的文化人たちから散々に罵倒された孤高の文学者だった。
福田恆存は政治の場にあっては、けっして孤独から出発した「思想」を持ち込もうとしない。孤独な魂の文学の連続線上で政治の場に入って来た村上春樹とは逆の立場にある。
『一匹と九十九匹』は戦中の「がまんならぬ」政治状況をくぐり抜けてきて書かれた文章である。敗戦後1年余りを経た昭和21年秋に書かれたものだ。
福田恆存の文章にはすごみがある。以下にひとつの段落を丸ごと引用してみよう。
ぼくは ― ぼく自身の性格は政治の酷薄さにたへられない。その酷薄さを是認するにもかかはらず ― いや、それを是認するがゆゑにたへられないのである。さういうぼくの眼にプロレタリア革命の理論は苛酷きはまりないものとして感じ、さらに戦争中の政治の指導原理はなんともがまんならぬものでしかなかった。かうしてぼくはものごころづいてから現在にいたるまでたえず政治の脅威を身に感じてきたのである。が、その間、ぼくはそれをおそれて孤独に閉ぢこもりはしなかった。ぼくはそのやうな孤立への偏向をみづから警戒してゐたし、孤立が自分のためになにものかを生むものとは信じてゐなかった。ぼくはむしろ自分の力の可能な範囲内で政治的、社会的にふるまってきた。といふのは、政治のことばで文学を語る危険をおそれたと同様に、文学のことばで政治を語る愚劣をおそれたからにほかならない。知性や行動によって解決のつく問題を思想や個性の場で考へ、それをいたづらにうごきのとれぬものと化するあやまちを避けたかったからである。(同書)
繰り返す。
文学のことばで政治を語る愚劣をおそれたからにほかならない
エルサレムは村上春樹にとってやはり鬼門であったようだ。 (了)
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〔訂正〕
p.5【オウム真理教事件が与えた衝撃】の章で上から7行目に「1978年の時点で」とありますが、正しくは「1982年の時点で」です。筆者の誤記です。訂正します。