村上春樹における文学と政治 ―デタッチメントとコミットメント

【ステートメント】

 村上春樹は「直接的な意見を述べるとステートメント(声明)になってしまいます」(14年・毎日)と言って、自分の発言は政治メッセージではないかのようなエクスキュースを入れる。日本の原子力政策を強く批判しながら、それは「非現実的な夢想家として」(11年・バルセロナ)の発言であるとエクスキュースを入れる。

 『羊をめぐる冒険』で「羊」を殺すのは現実の「僕」ではなく、「僕」の「影」ともいうべき「鼠」である。『ねじまき鳥クロニクル』の「僕」はパラレルワールドで「綿谷ノボル(=悪)を惨殺するが、現実に「綿谷」を殺すのは「僕」の元妻「クミコ」である。『1Q84』で「さきがけ」のリーダーを殺害するのは、「天吾」(ヒーロー)生き延びさせるための「青豆」(ヒロイン)の自己犠牲によってである。

 責任が回避されている。

 村上春樹は高い倫理を持った人であろうと私は推察している。

 2009年エルサレム賞授賞の内示を受けたとき、身近な人たちからは辞退するよう強く忠告されたようである。村上春樹はかねがねパレスチナ問題についての知識や関心が深く、イスラエル政権の政策に反対意見を持っていた。授賞式の直前にはイスラエル軍のガザ空爆が始まり、多数の無辜の人々が殺害されていた。そのなかで村上春樹はあえて受賞辞退という安易な途を選ばず、イスラエル大統領等お歴々のメンバーが居並ぶ授賞式で、大統領の表情が次第にこわばっていく様子を目の前にしながら、イスラエル政権批判を含意するスピーチを行なったのである。大統領は古くからの村上春樹ファンで、10年ほど前にも演説の中に『ノルウェイの森』を引用するほどだったというのに。

 村上春樹は語っている。

僕自身はとくに勇気があるとは思いません。イスラエルは独裁国家じゃないし、基本的には言論の自由な国ですから。それよりはゲストとして招かれて、いろいろと親切にしてもらいながら、そういう人たちの前でイスラエルについて批判的なメッセージを発しなくてはならなかったことに対して、つらい思いがありました。言わざるを得ないことだからもちろん仕方がないんだけど、僕としてはそっちの方がむしろきつかったです。素直にありがとうというだけで済んだら、どんなによかっただろうと。(『僕はなぜエルサレムに行ったのか』文藝春秋2009年4月号)

 この人の人柄がよく伝わってくる言葉である。

 以下は受賞スピーチの中でも特に有名になった一節である。

もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。(原文は英語。訳・文藝春秋)

 壁を生み出したのは卵の方からそれを必要としたからだという事情もあろう。壁と卵は単純に二分できる問題ではないのである。それは村上春樹も充分承知だろうが、あえて単純に二分して、自分は卵の側に立つと宣言したのである。これをステートメントという。

 この後今日にいたるまで、村上春樹の発言には続々と政治メッセージが込められるようになってきたのである。

【深さの文学】

 文学とひと口にいってもいろいろな作品があるが、基本的には人間の個別性から発せられる心の表現だといえるだろう。

 私は高校3年生のとき、学校の創立記念祭で吉川幸次郎博士の『文学と人生』と題した講演を聴いた(吉川幸次郎講演集所収・朝日選書1974年刊)。村上少年も同じ高校で当時1年生だったから、神戸国際会館でその講演を聴いていたにちがいない。

 吉川先生は「あひみての のちの心に くらぶれば むかしはものを おもはざりけり」という歌を例示し、このきわめて個人的な恋の歌が、特段激しい恋の経験を持たない者をも含めて、広く人々の感動を呼ぶのはなぜなのか、ということを話された。優れた文学は個別性に徹することによって普遍性を獲得するのだ。

 吉川先生のお話は、村上春樹の孤独な魂の表現からスタートした創作が、地下深くに沈潜したからこそ多くの読者の共感を得たという偉業に通じるものがある。並の才能でできることではない。その魂の交流は民族や国境の壁を超え、人々との心の繋がりを強めた。

 トルーマン・カポーティは『冷血』や『ティファニーで朝食を』で有名なアメリカの作家である。そのカポーティに『クリスマスの思い出』という珠玉の短編小説がある。この原文(1956年)、旧訳(68年・改訳88年)、村上春樹訳(90年・改訳08年)の三つを読むと、村上春樹がいかに言葉に対する誠実さと文学への敬意を深く持っているかがよくわかる。村上春樹訳では、訳者の力みがなく、訳者の姿がすっと消えてしまったかのような日本語で、イノセンス(無垢)というカポーティ文学の魅力の核心が過不足なく描かれている。凡手のなせる技ではない。文学への敬意が深いからこそ、自分の姿を消し、カポーティの心を浮かび上がらせることができるのだ。

 文学は、言葉を船として、人と人の間で心を運ぶ。そこでは運び出す者、受け取る者双方の心に相応の深さが要求される。村上春樹の文学は、井戸や地下に創作の秘訣があるように、深さの文学でもある。

ある種の人間には深みというものが決定的に欠如しているのです。何も自分に深みがあると言っているわけじゃありません。僕が言いたいのは、その深みというものの存在を理解する能力があるかないかということです。(村上春樹『沈黙』・初出1991年)

 短編小説『沈黙』は村上春樹の膨大な作品群の中で異色の輝きを放っている。31歳の物静かで誠実な好漢(大沢)が中学、高校時代の思い出を話す物語である。

 抜群に頭がよく(回転が速く)、要領がよく、人間関係の取り方も巧妙で、人望が厚いクラスメート(青木)との確執が語られる。なぜ異色の作品かというと、村上春樹の心に潜んでいるルサンチマン(恨み)が珍しく顕わになっている小説だからである。この物静かな好漢大沢が、青木に対する強い嫌悪感と怨嗟をほぼ全編にわたって淡々と語り続ける。多くの読者はこの好漢に強く共感する。大沢は青木から卑劣な仕打ちを受け、さらに級友の自殺をめぐって、身に覚えのない濡れ衣を、青木の狡猾な陰謀によって着せられてしまう。大沢は級友たちからも教師からも「まるで伝染病の患者を避けるみたいに避け」られ、地獄の日々を過ごすことになる。

 小説の末尾近くで大沢は語っている。

でも僕が本当に怖いと思うのは、青木のような人間の言いぶんを無批判に受け入れて、そのまま信じてしまう連中です。自分では何も生み出さず、何も理解していないくせに、口当たりの良い、受け入れやすい他人の意見に踊らされて集団で行動する連中です。(中略)本当に怖いのはそういう連中です。

 これは文学者村上春樹による大衆批判である。

 村上春樹の文学の深さに対して、政治発言の奇妙な浅さについてはここまで見てきたとおりである。そしてそれについては「非現実的な夢想家として」の発言であるというエクスキュースが用意されている。つまり自分のメッセージは政治の言葉ではなく、文学の言葉に拠っているのだということだろう。

 しかし受け止める側に対しては政治的な効果をもたらすのだ。

 朝日新聞も、毎日新聞も、村上春樹の寄稿文やインタビュー記事を掲載ページで異様に大きく取り上げるだけでなく、まず第一面で特段の重大ニュースであるかのような紹介をしている。村上春樹が外国でスピーチを行なうと、日本のTV画面では、キャスターやコメンテイターたちが神妙な面持ちで「重い言葉です」とか言って、頭(こうべ)を垂れたりしている。

 上に引用した文学者村上春樹の大衆批判を今一度思い起こしてみよう。今やその大衆を煽っているのは誰なのだろうか。

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西部邁

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コメント

    • 吉田勇蔵
    • 2014年 12月 14日

    〔訂正〕
    p.5【オウム真理教事件が与えた衝撃】の章で上から7行目に「1978年の時点で」とありますが、正しくは「1982年の時点で」です。筆者の誤記です。訂正します。

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