サブカルがまたオタクを攻撃してきた件 ——その2 オタク差別、男性差別許すまじ! でも…?
- 2016/10/18
- 政治, 社会
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男とかいう愛されない性別
先日、「オタクvsサブカル」の対立の原因は、岡田斗司夫さんの『オタク学入門』にあるとする説を耳に挟みました。ここで岡田さんは日本のサブカルがアメリカの猿マネで、海外では評価されないのに対し、オタク文化は日本独自のものであり、海外で評価された、と指摘していました。いささか辛辣で、サブカル陣営が怒るのも無理はありませんが、しかし残念ながらこの指摘には、一理も二理もあるように思います。
町山さんがアメリカ在住であることが象徴するように、彼らは一様に「アメリカ好き」です。むろんそれは戦後の日本に生まれ育った彼らの必然でもありましたが、その次の世代が国産の文化を愛好するようになったこともまた、必然的な流れだったのです*2。
やはりオタクブロガーである新田五郎さんは「日本のサブカルチャーについて」*3の中で、
「日本が世界に誇るナントカ」が、最近ネットやテレビでやたら出てくるが、その背後には「オタク勝利論」がある。
オタクとサブカルの違いは定義づけが面倒だが、「ドメスティックであり続けた結果、世界に認められた」という自信が、「オタク」にはあるように感じられる。
逆に、60年代あたりから積極的に海外の最先端文化をお手本とし、海外の「同志」と手を組もうとしてきた「サブカルチャー」は、なんだか旗色が悪い。
と指摘しています。
「何故サブカルはオタクを憎悪するのか」の回答がここにあります。
むろん、上の指摘から鑑みると「サブカル≒左派≒反日」といった図式も浮かび上がろうと思います。
しかし、もっと根源的な理由がありました。
それは、サブカルが「他者志向」的だったからなのでした。
そしてそれは、左派の人権思想と「完全に一致」しています。フェミニズムやセクシャルマイノリティの解放運動*4、人種問題、或いは、例えばイルカなどに巨大な幻想を見て取ろうとするスピリチュアルがかったエコロジーなど、常に「中央に対し、排斥された周縁の者をカウンターとしてぶつける」というのが彼らの手法でした。これらはむろん、「弱者の味方をする」という崇高な理念が根本にあったはずですが、すっかり形骸化して、「中央にいる者の中から弱者を選び出して叩くノウハウ」に成り下がってしまいました。
「他者を理解できる俺、格好いい」に堕してしまったのです。
「周縁の者に寄り添うポーズを取ることで、仲間に差をつけるための、ツール」に堕してしまったのです。
端的には、サブカルも左翼思想も他者志向、彼らの多くが男性であることを鑑みるならば、それはミサンドリーそのものだったのです。
翻って、オタク文化は「内部指向型」と言えます。
「格好は悪いけど、ぼくは自分のニーズに没頭する」だったのです。
「対外的には自虐しつつ、自らの欲求を吐露する、スタイル」だったのです。
「萌え」はある意味、男性の理想の女性像を幻想の世界に作り出そうという試みです。ここでは、主人公の男の子が何ら理由もなく大勢の美少女たちから求愛されます。一世代前の「ラブコメ」ならば「男の子が努力して(例えば甲子園へ行くなどの)手柄を立て、女の子の愛を得る」という現実世界のルールが生きていたのですが、「萌え」において男の子は「ただ、そこにいるから」女の子に愛されるのであり、そこに現実の恋愛からのフィードバックは、極めて希薄です。
身勝手な、いい気な妄想なのですが、(それは女性の読むレディースコミックやBLも同様なはずですし)それを鬼の首でも取ったように指摘し、批判する人々の中に同じ欲望がないのかとなると、それはどう考えてもそんなわけはないし、そして、何より、第一、だからこそ、上に「格好は悪いけれど」と書いたように、「自虐しぐさ」こそがオタクの本質となっているのです。
サブカル陣営は「萌え」を、フェミニズムを援用して「差別的だ」と罵ります。これは「男が自らの欲望や内面を率直に表明するなどまかりならん、それらは全て悪なのだから」というミサンドリーだったのですが、そのような評価は先刻承知だからこその、「自虐しぐさ」だったのです。
自分が子供っぽい、或いは非モテ的趣味に没頭していることへの「自虐的な立ち振る舞い」こそが、オタクの本質です。これはなかなか端的な説明が難しいのですが、例えばアメリカのゲームオタクを主人公にした『ゲームウォーズ』という小説の中には、嫌味な似非オタクと対峙した主人公がゲームトリビアで相手を打ち負かす、というシーンがあります。これは日本のオタクからは違和のある描写で、もしぼくたちが近しいシーンを描いたら、「こんなムダな知識で勝ってしまったことがむしろ負けだ」とでもいった自虐が、必ず入るはずなのです。
そう、先に挙げた「「サブカルvsオタク」の争いは——」において、オタクを(政治の季節が終わったが故の、必然的な帰結としての)ニヒリストであると形容しましたが、このニヒリズムも「内部志向」の帰結としての「自虐しぐさ」と通底しているわけです。
これを反転させると、前回挙げた保守寄りの人々の偽悪趣味(これはあまりいいことではないと思いますが)になってしまうこともまた、言うまでもありません。
更に言えばサブカル陣営のオタクへのバッシングもまた、(竹熊健太郎さんが内ゲバ」と形容したように)一種の自虐、自虐の委託と言えます。先にDV夫に例えましたが、彼らは「外面がいいからこそ、家では妻に自傷行為の延長としてのDVを繰り返す」わけです。
——ちょっと待て、お前は「相手をミサンドリーと難じるやり方は望ましくない」と言ったではないか。いつまで経ってもその話にならないのはどういうわけだ。
はい、今しようと思ったところです。
ぼくはフェミニストたちの「ミソジニー」を断罪するやり方を、「感情そのものを否定する考え方で、受け容れられない」と言いました。
それと同様、「ミサンドリーだから、けしからぬ」と相手をやっつけようとする態度そのものが、「感情そのものを断罪する考え方」なので望ましくないと言っているのです。
本稿の目的は、相手を断罪するよりはまず、このミサンドリーというものの源流に目を向けた方がいいのではないか、という提案をすることなのです。
赤木智弘さんは『若者を見殺しにする国』の中で難病の子供を救うために行われる募金活動を例に挙げ、「仮に自分がこれに倣っても募金を集めることは望み薄である、それは自分が“可愛く”ないからだ(大意)」と指摘しています。
そう、ここでは子供と年長者の対比となっていますが、男性と女性においても同じことが言えます。仮に年齢を同じと仮定すれば男女のどちらにより、多額の募金が集まるでしょう? 答えは言うまでもありません。
男女には最初から、圧倒的な「愛され格差」があるのです。
だからこそ、左派は「ネトウヨが、オルタナ右翼が自らを被害者であると称しているぞ」と指摘しただけで、相手を「決して許されないことを言っている悪者」であるとして大勝利できるのです。
だからこそ、サブカルは「自分たちの外の誰か」に寄り添うポーズを取ることで、愛を得ようとしているのです。
フェミニストが「ミソジニー」と言う時、それは単に「フェミニズムを批判する者」、「女性に性的な欲望を抱く者」を指して、そうした人たちを「女性差別主義者である」と断じるという、実に恣意的、実に暴力的な用法がなされていることに気づきます。
反して、「ミサンドリー」は上に見た通り、ぼくたちのジェンダー規範そのものに実に強固に結わえつけられています。言い換えればミソジニーが極めて局地的な概念であるのに比べ、ミサンドリーはまるで空気のように普遍的なものである、ということです。
そしてこれは、ジェンダーフリーなどの「人の意識を変革する」やり方で乗り越えられるものだとは、とても思えません。
そもそもフェミニストたちの「ジェンダーフリー」って、莫大な予算を投じたわりに、人々に「女性も働くべき」「女性はピンクを好むといった偏見はよろしくない」といった彼女らの偏見を押しつけ(て、受け容れられなかっ)ただけのものでしたから。
近年では「男性学」「マスキュリニズム」と称し、「男性をもジェンダー規範から解放する」とする思想も台頭してきていますが、これこそが「フェミニズムに平身低頭すれば男も救われる」との「他者志向の権化」でした。
ぼくは「ミサンドリー」を「あってもやむなし」としているわけではありません。しかし、単純なフェミニズムの援用で超克できるものではないことを見据え、究極的には共存すべきものとして捉えることこそが大事なのではないかと思うのです。
『シン・ゴジラ』において、ゴジラはただ単にやっつける対象ではなく、人類の脅威であり、福音でもある、共存していくべき存在ではないかと語られました。
従来のゴジラは太平洋戦争の怨霊、といった性質が強かったのですが、本作においてはむしろ原子力のメタファーそのものといった趣が強かったように思います。
ぼくたちもまた、「ミサンドリー」そのものを「男性ジェンダー」のネガティブな側面であるとまず捉え、そうしたデメリットをも含めた「男性ジェンダー」と共存し、むしろそれをよりよい方に持っていく、と考える他、やりようがないのではないでしょうか。
*2 ちょっと年代の異なる話題ですが、テレビドラマもまた、黎明期はアメリカ産のものが主流だったのが、次第に国産のものが増えていった、という似たような経緯を辿ったことが連想されます。
『月光仮面』は川内康範原作の、ほぼ日本初のテレビ番組でしたが、これは川内がアメリカ産ドラマの輸入ばかりしていては国益に反すると憂慮してのことでした。
サブカルもまたこれと同様に、戦後の文化流入の流れの中で生じたものだったのです。
*3 (http://funuke01.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-603e.html)
*4 その意味で、町山さんが「オルタナ右翼」を「ゲイに寛容」としているのは意外でした(これは「たまむすび」でも語られていたのですが、要はゲイのトランプ支持者が一勢力となっているというだけのことでした)。何しろ左派やフェミニズムはゲイを「聖なる被差別者」として「妄信」と呼ぶしかないほどに崇拝していたのですから。
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