憲法についてまわる「諸国民」の概念
こういうねじれが起こっている状況では、その対立関係の中心となっている憲法を改めて考える必要があるわけでしょう。
連合国から押し付けられたとか、8月15日に革命が起こったとか、いいたい放題、保守もサヨクもしておりますが、いずれにせよ、共通しているのは、「あの戦争」に負けた旧日本の全否定というところから憲法の解釈は始まっているわけです。
その考え方が前文の一部によく表れています。
諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
(中略)
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。
主権は国民に存在していると宣言しながらも、「諸国民」という定義の曖昧な対象を持ち出して、「協和による成果」というまたしても何のことやらわからない言葉を持ち出しているわけです。
加えて、その「諸国民」が「平和を愛する」と定義して、「諸国民の公正と審議に信頼する」という文言まで持ち出してきているわけです。その曖昧な定義の言葉の上に、とうとう「安全と生存を保持しようと決意した」というわけです。
つまり、日本の憲法は「諸国民」という視点を常に意識しながら、「彼らの構成や信義は何たるか?」、「彼らとの協和をいかにせん?」といった議論を繰り広げていかなければならないわけです。
諸国民の位置に来るのはアメリカ人か?中国人か?
さて、そう考えると、結局、日本のサヨクと保守の差はこの憲法前文の「諸国民」に対して、具体的にどこの国の人々や民族を位置させるかだけの瑣末な差なのかもしれません。
いわゆるサヨクは特定アジア、中国人や韓国人などを位置させ、一方の保守はここにアメリカ人や連合国側を位置させてきただけのことでしょう。
そのため、9条の改憲や全体の改憲論も不毛なものになるでしょう。主張している、サヨクにも保守にも、最も重要な「日本国民」についての議論をさけ、憲法において定義させることを意図してか、あるいは不作為かはわかりませんが、避けてきたのですから。
※第25回「フラッシュバック 90s【Report.25】3月7日「慰安婦問題」が政治的決着する日?」はコチラ
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