ものに潜む陰
- 2013/12/25
- 社会
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「良いもの」つまり「精神に栄養をもたらすようなもの」「華を添えるもの」を目指し作り手にはものを作って頂きたいのですが、どういうものが「精神的な栄養になる」のか「華を添えるもの」なのかということにかんして、チェックリスト的条件、規格のようなものは捕まえてもそばから消えるように感じるものなものかもしれません。一つ確固として存在するとすれば、自覚してのことにせよ無自覚にせよ伝統とどれだけ対峙しているか、創造性を伝統という力によってどれだけ練っているかということです。この一点に尽きると考えます。伝統と対峙すると言いましたが、それは伝統の中に含まれる同じ仕事をしてきた、つまりその伝統を醸成してきた数限りない人たちとの協力作業に他ならず、自分の生きている時間の陰にある過去の人々と時間と空間を超えて接続されることなのです。そういうバックボーンがあればあとはどうでもいいのかな、面白いもの作って欲しいなと考えています。街を歩いていて九十九匹は気にも掛けないかもしれないが残った一匹のために作られていて自分がその一匹であったと、たとえ思い込みであるとしてもこんなに物があふれている中でそういうことを思えるものに出会うというのは稀なことだし、つまり欲しい、好きだと思うということはそのもの、ひいてはそれを作った人物と貴方自身がどこか似ているからに他なりません。そういう出会いがあるというのはとても心強いものです。趣味趣向を突き詰めるということは本来とても孤独なものです。流行に乗って周りになんとなく合わせていればつかの間、自分が孤独でないかもしれないと思えることはあるでしょう。昨今はそれが趣味、好みだと言われてしまっていますが、しかしそんなものは遅くとも流行の収束とともに、早ければその最中にだって冷めてしまう瞬間が訪れる本質的には虚しいものです。友達や仲間というのは寂しさを紛らわすために、現在生きている人間となあなあの関係をこさえる対象のことを指すのではないと考えています。歴史の中に自分の敬意を表する未だもしくは決して会うことかなわない人に、ある一つのものを通じて繋がっていく関係を求めても良いではありませんか。
新しい物を作るときにも同様です。むしろその品物を持っていない、使ったことがない人が多ければ多いほど新しい物を作るときに上記のようなことが考えてあると世間への浸透速度が速くなって行くと思います。またそのことを考えるとき、ある経験の集積としての個人、またはその集まりとしての集団によって考えられるわけですから、そこに全くの無私の気持ちによってということは出来得ないという気がします。ある形を創造するに当って集団でとりかかっているにせよ、その中の個人の有する美的感覚に最後の最後委ねる瞬間が必ず訪れるからです。また最後に少しはみ出た自分の美的感覚に対する他人の評価を甘んじて受ける度量を含みます。その責任を負った個人が様々な条件の中である瞬間絶妙なバランス感覚で下す、思考の長い時間の切っ先としての瞬間の孤独を含んだ勇気こそ私は感じ取りたい、そして金銭を払いたいのです。そして安かろう悪かろうでだらしなく適当な考えによって作られた物に妥協し、嫌々買ってそれによって構成された生活よりも心意気のある責任と適切な勇気や覚悟ある洒落っ気のあるものに囲まれた暮らしのほうがどんなに良いことでしょう。どんなに充実していることでしょう。
嫌いな人と必要もないのに付き合うことはないと考える人は多いと思いますが、見ればそういう人でもこと物に関してはとんと無頓着であったり安さを価値と勘違いしている場面によく出くわします。そういうとき、前の方に挙げた「断捨離」が効果を生みます。自分の生活の中で利便性を感じていながらなんとなく気に食わないものは一度捨ててしまうことをおすすめします。甘んじて付き合う必要はありません。そしてこれはおまけの効果ですが、ある物への見る目を養うと自ずと似た人が集まってきます。本当です。そこでまた心底とまでは言いませんが、これまで周りの人と共有できなかった価値観を弱めに言って比較的共有できる人と今度は実際に出会うことになるでしょう。その関係に比べたらなあなあの付き合いなど屁のようなものです。自分の突き詰めた趣向に対し軽はずみに大雑把な言葉など使いたくなくなります。そうすれば言葉を丁寧に使うようになるでしょう。もちろん物自体の扱いも丁寧にならざるを得ず、自分で手入れするようになればまた、ものひとつ挟んで接続される先人たちの陰は増えていきます。朱に交われば赤くなるとの諺の通りいい加減な物に囲まれていればそれを選択し続けている人物自身も、だんだんだらしないものになっていくのは私の少ない経験からみても概ね正しそうです。なにかいいものを探そうとすれば、当然いいと思って手に入れたがよくよく見ればつまらんものだったという経験も必ずやありますが、それは次回の糧にしてください。あんまり続けて失敗するようならそのセンスは今の自分にはないと諦めて信頼できる他人に話をよく聞いたり、伝統礼儀に反しない無難なものにして、ものに対する目を養うことをおすすめします。ものに対する目を養うこと、それはそのものに含まれる時間の量を受け取る力に他なりません。最後に、私自身参考にしている坂口安吾の言葉を引いて終わりにしたいと思います。
毒々しいまでの徹底したエゴイズムからでなかったら、立派な何物が生まれよう。社会組織の変革といえども、徹底的なエゴイズム(※)を土台にしたものでない限り、所詮いい加減なものに極まっていると私は思う
(坂口安吾「枯淡の風格を排す」 )
(※一般的なエゴイズムではなく、ここで言われているのはある個人が自分だけが良いとするエゴだけでは飽きたらず他人まで気持よくさせようとするような拡大の仕方をするエゴイズムと私は読んでいます。)
さあ、今日から良いものの陰に潜む先人たちを探し出し、その繋がりに応援される生活を送ろうではありませんか!!
コメント
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>伝統とどれだけ対峙しているか、創造性を伝統という力によってどれだけ練っているかということです
作りてと受けてとの付き合いの中に、こうした伝統に対する意識というか敬意というか、
そういうものが、もっと普段の生活のなかにある社会が、本当の成熟した社会ではないだろうかと思いました。
ろっくさんコメントありがとうございます。
作るという行為と作ったものを受けるという行為、この二つには勿論大きな差はありますが、受け取る側にあっても、例えばヤカンにしましょう、「ヤカン、それは湯を沸かすもの当たり前じゃん」という認識だけであるのと、「使ってるうちに段々味出てきたなあ」「ヤカンの顔、真似してみようか」「取っ手食う着けた方がいいと思いついたやつ、賢いなあ」なんて思ったりする感覚もあるのと、私はどちらかと言うと、ヤカンが発端になっていろいろ考え始める姿勢の方が、好きなんです。
毎日「伝統とは!」と歴史書や民族史なんかを見て順序立てて整理して考えるのは一見近いようで本質と遠ざかって行きはしないものの、あるものがない状態ではいつまでも本質に触れないものではないかと思います。そのあるものとは、ある種の直感です。
プルーストの『失われた時を求めて』で主人公が石畳に蹴つまづいたときに、一瞬にして昔の記憶が頭の中を怒濤のように駆け巡るあの瞬間のような、理性によって区分けされれば別のもの、関係のないものとして捨て置かれる「雑多な」という汚名を着せられる、まぎれもない自分の体験の断片があるもの「ヤカン」を扇の要のような役割とし瞬く間につなぎ合わせてしまうあの直感です。
私の苦手な環境は、「それは今関係ない」と自分たちをある部分として特化させてしまって顧みない、そういうことに他なりません。
ろっくさんの仰るようにある者とまた別の者との関係に於いて豊穣な感覚のやり取りが行われる世の中というのは、とても豊かなものだと私も感じております。また人間は、そのようなやり取りを実はやっているにも関わらず、どこかあるやましさが、それを見えているにも関わらず見ないふりさせていると考えています。