ユビキタス社会の到来で広告はこう変わる?!
今回は、本題に入る前に、私が最近見た変な夢を紹介します・・・
その夢の中で、私は町で女の子とデートしているのですが、この町がちょっと変わった未来風の町で、いたるところにCM用のディスプレイが置かれています。
そして、私が女の子と一緒に、その町のCM用ディスプレイが並んで置かれた通りを通ろうとすると、なんといくつもあるそのディスプレイがエロサイトの広告に変わります。
「なんだよ?デートの雰囲気が台無しじゃないか!!」
と一瞬イラッとするのですが、その後、すぐに気付きます。
「ああ、そうか、俺がいつもネットでエロサイトばかり見てるからこのCM用ディスプレイのコンピュータのアルゴリズムで俺がエロサイトに強い興味を持っていると解析して、エロサイトの広告ばかりがディスプレイに表示されているんだ!!」
気付いた時には時すでに遅し・・・
バチーン
「アナタって、いつもこんなイヤらしいサイトばかり見てるのね!!最低!!」
「いや・・・ちょっと待ってコレは違うんだよ!!ちょっと、行かないで・・・ちくしょおおおおおおお!!!!ユビキタス社会なんてクソ喰らえだああああああ!!!!!」
と叫んだところで、目が覚めました。
一般にイメージされる広告のあり方
おかしな夢だなと思いますけど、結構コレって一般の人が企業の広告に抱く一般的なイメージなのではないかと思います。つまり、別に今欲しいとも思っていないものを無理やり企業に押しつけられる。最近では、マッチング広告などが主流になりつつあるので、以前のように延々と欲しくもないモノの広告を見せられるなんてことも少なくなってきましたが、それでもやはり、「広告=企業からの押しつけ」という負の印象は強くあるのではないでしょうか。
ドイツの社会心理学エーリッヒ・フロムは、現代人の消費のあり方は、広告により影響され、自分自身の欲求から疎外されていると主張しています。
「消費は結局、人工的に刺激された幻の欲求の満足にすぎない。具体的な真実の自己から疎外された幻の遂行に他ならないのである。」
経済学者のジョン・ケネス・ガルブレイスも現代社会では欲求の多くは消費者の自律的な意思から生み出されたものではなく、生産者の宣伝・広告によって消費者の外側から植えつけられたものだと認識し、概ね、フロムのこのような見解と一致した見解を示しています。
「個人の欲求が重要であるというのならば、欲求はその個人自体から生まれるものでなければならない。個人のためにわざわざ作り上げられたような欲求は重要であるとは言えない。欲求を満足させるところの生産過程によって作り上げられるような欲求はもってのほかである。」
このような見解からガルブレイスは、外部から影響された生み出された欲求は消費者にとって無意味なものであり、そのような無意味な生産や消費に多大な資源をつぎ込む市場社会の価値に疑問を呈します(ちなみに、生産と消費を中央政府が完全にコントロールする社会主義国においては、生産者が消費者に商品を売り込むような市場における宣伝はありません)。
ハイエクによる市場と広告の擁護論
ガルブレイスのこのような見解に対しハイエクは反論します。ハイエクもまた、現代社会における人々の欲求の大部分は、広告などの社会的影響の産物であると認めますが、ハイエクは、欲求が生得的でないからといって重要ではないと考えるガルブレイスの考えは不条理であると論じます。たとえば、優れた芸術や文学に対する高次元であると考えられている多くの欲求は明らかに生得的な欲求ではなく、学習の結果身に着ける後天的な欲求ですが、このような後天的な欲求の充足を無意味なものだと決めつけ切り捨てることは人間の文化そのものを否定することと同義であるとハイエクは主張します。
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2コメント
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我々消費者はその「可能性」には参加しておらず、
せいぜい「触媒」としての参加ぐらいだ。
「こんなモノが欲しかった」なんて言うのはウソで、
初めてそのとき思った錯覚だ。
そう思はせる商品を作るのが専門家の仕事である。
可能性として鳥瞰しているのは別の何かだ。
ある一定の購買力、潜在欲、漁場として。
「可能性ガールズ」という曲がある。プロの歌手ではない、
所謂アーティストのファッションモデルが歌う曲。
散乱した合わせ鏡のような自己顕示欲と欲望。誰が誰に仕向けているのか、
なにが欲しいのか、金で裏打ちされぬマネーのような不確実感。
他人の欲しいモノが欲しい、その欲望としての純度の高さ、貪欲モード。
洋服を買って組合わせるなんてことに創造性なんてない。
凡庸ゆえに選ばれた読者モデルが縮めたニックネームで、
呼びかけ、現在形、略語等で親しげに「共感」に訴える!
女子高生や代表のあゆ(古い?)に既に用意したモノを選ばせ、あゆがプロデュース。
買い物とは選択であり、快楽原則であり、誰でも出来る受動的な能動性だ。
それは「表現」なのだそうだ。
仮に何かが出来るシロートはもうプロになりかかっている人だ。
我々ただのコンシューマーに、自身の「可能性」なんて無い。
なるほど、確かに市場には可能性があるのだろう。
だがそれも昨今、ただの「延長」にしか見えないのだが。