ものに潜む陰
- 2013/12/25
- 社会
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俺はムカついた!ふりかけ!お前にだ!!
楯突くようになった私の原体験をお話します。
幼い頃、私が保育園に持参することになっていたご飯(アニメキャラが印刷されたステンレスの器でした。懐かしい)に、当時周りの子供たちの親はふりかけをかけていたものでしたが、たまに詰めてもらう機会のあった私の父方の祖母に持たされたご飯には絶妙な加減の塩が振ってあり、あまりの旨さにおかずそっちのけで食べた思い出があります。湯気の味さえ今でも思い出します。家に帰ってからそれを父親に話すと、「ばあちゃんは貧乏だからなあ」と言いました。いま思えば母に気を遣った答えをしたのです。「なるほどばあちゃんは、ふりかけを買えないのか」と幼い私は納得する部分もないではなかったのですが、「あれでいいんじゃないか?」という私の気持ちは表層の納得の下で全く揺るがないものだったことを覚えています。
当時の一般的なふりかけのようにご飯をそれだけでは味気ないから何某かの色を塗って、ご飯のつまらなさを感じさせないようにさっさと食べちゃいましょう。というご飯に対する否定的な考え方があるように思え、それに対して適量の塩によって、ご飯もやはり美味しいものであると感じさせる祖母のご飯は、ご飯を積極的に肯定していこうという姿勢のように思えたのです。
当時私の両方の祖父母は田んぼを作っており、母方は比較的裕福で母方の実家の方に行くとふりかけはありました。なるほど父方の実家は今思えば比較的貧しかったようで確かに父の言ったようにふりかけを買うような余裕と流行に対する順応性に欠けていたのかもしれません。友達の持参したご飯に添えられていたふりかけが幼いころ見ていたTVアニメのキャラクターが描いてあったりすれば、CMを見て知っていたその商品に付いているシールなどのおまけを想像し、また目にし、羨ましいと思ったことも事実あったことですが、しかしながら大人になって思い出すのは他ならぬ祖母の詰めてくれた塩ご飯の感動的な味なのです。幼い子供は近視眼的なところがありますからどの料理も、更に細かく言えばどの一口も、いつも「オイシイ!」と思いたがるものだと思います。であるからこそご飯と一緒に甘いジュースを飲んでも平気な顔をしているのだと思います。何も私が早熟だったと誇りたいわけではありませんが、貧しいがゆえにふりかけを買うことをしないように見えた父方の祖父母の生活の中からひねり出した過不足のバランスを失しないアイディア、つまりお米を美味しく食べるため、または、腐敗から守るため振りかけられた絶妙な加減の単なる塩は、自分たちの苦労して作った米を結果的に卑下することなく、その味に増幅効果をもたらせた。そういう風に私は理解しています。この祖母の塩加減は私の価値観に大きく影響を及ぼしています。それは、塩を適度に振りかけることは、ご飯の味を殺さず相乗効果を生む行為であるのに対し、自家製であったとしてもふりかけをのせるのはご飯を一段落として脇役に追いやってしまう行為であって、ふりかけの濃い味を薄めるようなものにご飯を貶める行為であるという気がします。これは本質的な違いと言って過言ではありません。この体験こそが私を無遠慮な物があふれている風景に楯突く理由です。これを踏まえて、よい物とは一体なにか考えていきましょう。私個人の話をしましたので今度は一般的なことをお話します。
やいコップお主は何者じゃ。
ここにひとつコップがあるとしましょう。大衆酒場で瓶ビールを頼んだときに出てくるような、酒屋でまとめ買いしたときおまけでつけてくれるようなせいぜい200mlくらいの大きさのよく目にするものです。大概ガラスでできていて、底部の方が面積が小さく厚みがあり、飲み口の部分が一回り大きい横から観ると逆さの台形をした円筒状のものです。
さて、このコップにビールを注いで飲むのは何故なんでしょうか。
色々な理由があると思います。「いい歳こいて何故ってアホか!コップに注がないでどうするんじゃ!」と落胆混じりのツッコミを入れるのを、ちと堪えていただいて考えて頂こうではありませんか。この蓋のない円筒。なぜ10cmくらいの高さなんでしょう。同じ量を入れるなら高さ2cm位で平べったい形、シャーレや大きな盃のようなでも構わないかもしれません。あるいは試験管の細ながーいものみたいな形でも、同じ量をいれることが出来ます。あるいは星形とか、壺みたいな陶器の口がすぼまった形のものでも同じ量を入れることだけを考えれば代用することは可能です。しかし、あなたは往々にしてこのコップを使うことになるのです。店にいけばそのコップが用意されていることは言うまでもありませんが、このいい加減な時代にあって、瓶ビールを買って帰って試験管や壺で飲んでいる人はあまり耳にも目にもしません。直接缶や瓶に口をつける他は、大概コップで飲みます。それはあのなんの変轍もないコップが、これまで数限りない人々の思考や、実践を孕んであの形を持っているからです。そのコップを使う場面を構成する人たちの「これまで」を殺さない、「これまで」とどこかで地続きになっている形を持っているからです。
例えばお店側、使う側の視点としてはあんまり薄いと酔っぱらった時手元滑って割れちゃって危ないな、切ないな。お料理の皿が並んでいるときにあんまり皿みたいに大きいと邪魔だな。あんまり長いと隣の人に当たったり一々立ち上がって飲まんなならんのは億劫じゃな。などと思うでしょう、また作り手側も新しい作風考えてみたぜと息巻いて星形や長いイボとかついてるの作って、試作の段階で自分で使ってみた折、面白さより邪魔な印象が先に立つようなものであればやっぱりこの今までの形がいいな。とか、等々、いままでコップ作りに直接関わった人はもちろん、使う人たち、お客さんに使わせる人たちなど数限りない人々の思考や判断、冒険心やそれを冷静に省みる気持ち、または挫折や伝統への謙虚さ、まあいいんじゃないのという妥協、効率を重んじる気持ちなど現在以前という意味での過去の人々の色々な思考によって醸成されて、やっぱりこの形を作ろうという決断の結果、この形となったと見ることが自然だと考えます。
ここまで読むと「ユニクロとかダイソーなんかのお店に並んでるのも、だいたいそういうものなんだからそれが溢れてるのに目くじら立てたり、そういうものが多くて疲れるとかアホなんじゃないの?」と言われる方があるかと思いますがそうじゃないんだ!というのをお話しましょう。次に紹介するものは私を疲れさせるどころか元気づけてくれます。
コメント
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>伝統とどれだけ対峙しているか、創造性を伝統という力によってどれだけ練っているかということです
作りてと受けてとの付き合いの中に、こうした伝統に対する意識というか敬意というか、
そういうものが、もっと普段の生活のなかにある社会が、本当の成熟した社会ではないだろうかと思いました。
ろっくさんコメントありがとうございます。
作るという行為と作ったものを受けるという行為、この二つには勿論大きな差はありますが、受け取る側にあっても、例えばヤカンにしましょう、「ヤカン、それは湯を沸かすもの当たり前じゃん」という認識だけであるのと、「使ってるうちに段々味出てきたなあ」「ヤカンの顔、真似してみようか」「取っ手食う着けた方がいいと思いついたやつ、賢いなあ」なんて思ったりする感覚もあるのと、私はどちらかと言うと、ヤカンが発端になっていろいろ考え始める姿勢の方が、好きなんです。
毎日「伝統とは!」と歴史書や民族史なんかを見て順序立てて整理して考えるのは一見近いようで本質と遠ざかって行きはしないものの、あるものがない状態ではいつまでも本質に触れないものではないかと思います。そのあるものとは、ある種の直感です。
プルーストの『失われた時を求めて』で主人公が石畳に蹴つまづいたときに、一瞬にして昔の記憶が頭の中を怒濤のように駆け巡るあの瞬間のような、理性によって区分けされれば別のもの、関係のないものとして捨て置かれる「雑多な」という汚名を着せられる、まぎれもない自分の体験の断片があるもの「ヤカン」を扇の要のような役割とし瞬く間につなぎ合わせてしまうあの直感です。
私の苦手な環境は、「それは今関係ない」と自分たちをある部分として特化させてしまって顧みない、そういうことに他なりません。
ろっくさんの仰るようにある者とまた別の者との関係に於いて豊穣な感覚のやり取りが行われる世の中というのは、とても豊かなものだと私も感じております。また人間は、そのようなやり取りを実はやっているにも関わらず、どこかあるやましさが、それを見えているにも関わらず見ないふりさせていると考えています。