「フリードマンは悪いけどハイエクは悪くない」という議論について
- 2013/12/21
- 歴史
- ハイエク, ミルトン・フリードマン
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念のために、「イギリスとアメリカ」というところを、「アメリカとは異なるものとしてのイギリス」に置き換えたところで結論は変わらないということを述べておきます。
また、ハイエクは『致命的な思いあがり』という著作の中で、市場秩序〈競争市場の創りだす自生的で拡張した人間の秩序の擁護者(『同上』)〉と社会主義〈中央当局が人間の相互作用を計画的に整備することを要求する人びと(『同上』)〉の立場を対比させています。
前者を自身の立場とし、後者を〈人間はその周りの世界を望みどおりにつくることができるという致命的な思いあがり(『同上』)〉として、徹底的に批判しています。
確かに、この致命的な思いあがりに対する批判は妥当です。ですが、この「致命的な思いあがり」批判を行う市場秩序の擁護者(=自由主義者)の立場は、間違っていると思います。
強制を最小にすること、その基準はイギリスとアメリカの伝統であること、そうすると人間は進歩すること。これらは、致命的な思いあがりだと思います。
つまり、「致命的な思いあがり」批判を行うハイエクの立場は、致命的な思いあがりなのです。さしずめハイエク批判を行う私は、「致命的な思いあがり批判」批判ということになるのでしょうか。
ただし、ここでもう一段階だけ思想の深化が必要です。それは、ハイエク批判を行う私の立場も、致命的な思いあがりかもしれないという可能性です。誤謬性(間違える可能性があること)は人間が避けることのできない条件です。あなたの考えは致命的な思いあがりだけど、私の考えは致命的な思いあがりではない、そういう考えが既に致命的な思いあがりなのかもしれないのです。ですから私の立場は、自身が致命的な思いあがりかもしれないという点を考慮しながら言動を行うという観点から、「致命的な思いあがり批判批判」批判に移行します。
人間が何かを言ったり行ったりする上で、完全な知識があるという前提に基づいている可能性は、排除できないのだと思われます。
要は、「私は傲慢ではないという傲慢」を持つか、「私は傲慢かもしれないけれども、それでも言論を行うという傲慢」を持つか、そのどちらに与するかということです。
以上のように、私はハイエクを批判しました。マルクス主義はもちろん、自由主義や新自由主義の立場を取る限り、日本は本当にどうしようもなくなります。
日本がまともになるためには、「自分の歴史を真の歴史」と見なすところから始めなければなりません。そのとき日本人として、ハイエクの自由は拒絶せざるをえません。
このことを認識した上で、日本人が日本の歴史に向き合うことが必要なのです。まずは、この土俵に立てるかどうかです。
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