前回に引き続き、座談会「近代の超克」参加メンバーの論文を検討していきます。
吉満義彦『近代超克の神学的根拠』
吉満の論文では、近代的精神の問題が、近代的無神論の問題としてとらえられています。その見解は、キリスト教的世界観に基づいていてかなり特殊であるように思われます。
吉満は、健康なる形而上的ロゴス的知性による再建を信じていると述べています。西谷の『「近代の超克」私論』における意見と比べてみると、その見解の相違がきわだっています。
ここで注意しておくべきことは、「健康なる形而上的ロゴス的知性」という言葉についてです。形而上の健全性とは、どのように判定したら良いのでしょうか。
その具体例は、本論文で明確化されてはいないようです。何とかヒントとなる文章を探すなら、次の文章になるでしょう。
近代的精神の超克は、先づ我々自らにおける近代的自我からの解放を意味せねばならない。魂の悔恨が近代の超克の第一条件であること既述の如くであるならば、問題は個々人間の霊魂から始められねばならない。
吉満は、近代の超克という問題が、「如何にして近代人は神を見出すか」の問題に帰すと述べています。もしそうだとするのなら、その「神」の中身が問われなければなりません。
西欧近代における無神論を問題視するなら、西欧中世以前の神学を取り戻すのも一つの手ではあります。ただし、それはもはや、日本人の問題には成り得ないでしょう。
林房雄『勤皇の心』
林の論文では、論文名にもあるように勤皇の心について言及されています。
そこでは、神の否定・人間獣化・合理主義・主我主義・個人主義が「神国日本」の否定に行きつくと語られています。勤皇の心については、次のような言葉で示されています。
岩間に湧く清水の如く、清冷にして透明なる心、地底に燃ゆる火の如く、渾一にして激烈なる心、私なく人なく、ただ神と天皇のみ在はします大事実を知る心。
これは感傷的で情緒的な、ある意味で非論理的な文章です。過度に感情に訴えた表現であるように思えます。しかし、しっかりとした論理の基本には、しっかりとした感情が必要になります。それは、根拠を求める行為を掘り下げて行くとたどり着く、論理の構造から導かれる結論なのです。
そういった観点から考えていくと、勤皇の心というのは、日本を否定するものに対抗しうる可能性を秘めているのかもしれません。林は日本の文学に対し、本然の姿を取り返すことを求めています。文学におけるまことの純粋は、勤皇の心の中にあると考えられているからです。
下村寅太郎『近代の超克の方向』
下村の論文においても、近代はヨーロッパ由来のものだと考えられています。そのため、近代の超克という問題は、具体的にはヨーロッパ近代との対決となります。その方向はヨーロッパと同一なのではなく、問題の自主的な把握が必要とされています。
超克の方向について下村は、新しき精神の概念の自覚を通してその方法を見いだすべきだと述べています。まずは我々の知性の反省をうながし、その知性の傾向が植物的性格であることが指摘されています。それは受容的であり、柔軟性を持ち、繊細であり、強靱性もあるものだと語られています
つまり下村は、日本人を「花」を美しく咲かせる民族だと考えているのです。
ここで注意すべき点は、我々が受容的であるという指摘でしょう。それが、受容的でしかないという意味なら論外ですが、受容的でもあるという観点からは考えてみるべきことがあるでしょう。確かに日本文化は、外国からの文化を受け容れて、それを取捨選択して高度な文化を築き上げてきました。そのことは、誇っても良いことだと思われます。
ですから重要なことは、外国文化に対して受け容れるべきことは受け容れ、受け容れるべきでないことは受け容れないという判断なのです。その判断によって、日本文化は柔軟性・繊細さ・強靱性を持つことになるのです。
津村秀夫『何を破るべきか』
津村の論文では、近代精神の超克と同時に、現代精神の脱却も必要だと考えられています。
そのためには、日本人の民族的生理に合致した日本の古代精神と、その伝統の流れを継承すべきことが語られています。それと同時に、西欧近代精神を決して軽蔑してはならないことも語られています。
例えば、下村はニーチェやドストエフスキーやトルストイなどの名前を挙げています。確かに、これらの知の巨人に学ぶことは重要なことだと思われます。西欧における良質な部分については、謙虚に学ぶべきだからです。
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