『君の名は。』は女の子向け『シン・ゴジラ』である。

 オタク文化とは、言ってみれば「男の子の一人称」でした。
 ぼくはオタク文化を「裸の男性性」と形容することがありますが、それはオタク文化が今まで「父親」「息子」「社員」といった社会的役割を「鎧」にしてきた男性の、その役割を剥ぎ取った、裸の自分自身と史上初めて向きあった表現であるから、なのです。
『エヴァ』はシンジ君の私小説でした。
 ライトノベルは大体、男の子の一人称でストーリーが展開します。
 そして恐らくですが、その理由は、先行する『CLANNAD』など美少女ゲームが主人公である男の子の主観がモニタに映り、男の子の一人称で綴られるノベル的形式を持っており、それを引き継いでいるからでは……とぼくは考えます。
 もちろん、オタク文化には女性クリエイターのが作り上げたものも多くありますが、同時に彼女らの文化であるBLもまた、彼女らの欲望を男の子に仮託した、「男の子の一人称」による物語でした。
 もっとも、80年代のオタク文化はむしろ、「女の子」ばかりが主役でした。しかしそうした女の子たちはライトサーベルを手にして怪物と戦い、巨大ロボットに搭乗して戦場に立つ、内面的には実質的に「男の子」でした。
 しかし本作は「男の子の一人称」と「女の子の一人称」が交互に立ち現れ、後者へと収束していく物語なのです。
 岡田斗司夫氏は本作について、新海氏が作家性を抑え、商業性に舵を切った作品(大意)という評を与えていましたが*2、それは当を得ていると思います。新海監督のデビュー作『ほしのこえ』は上に挙げた80年代的な、美少女が宇宙で活躍する、女の子に男の子の性役割を仮託した物語だったのですが、本作はあくまで、徹底的に女性の視点を想定することで成り立った、極めて優れた商業映画だったのです(同時に、このデビュー作も本作も、宇宙が重要なモチーフになっていますが、本作では彗星の美術の美しさを除くと、その要素は非常に抑制的です)。
 言わば、自分の「シュミ」で作品を作っていたオタクたちが、よくも悪くも(リア充や女子という)他者を楽しませる大人の「仕事」として作り上げたのが、本作であると言えます(ちなみにこの「シュミ」という言い方は、80年代のオタクが自らの嗜好を指す時によく使った、決まり文句でした)。
 本作には、「震災のトラウマ」が濃厚に見られます。岡部凜太郎氏は同様のモチーフを持ちながら、しかし事態を収めるのが「公」ではなく「私」であることを指摘して、本作と『シン・ゴジラ』とが対照的であると指摘しました*3。しかし、もっと、ものすごく単純に『シン・ゴジラ』が「男の子向け」とするなら、本作は極めて「女の子向け」であるという点でも対照的だったのです。
 別な言い方をしましょう。
 実は本作は、三葉の見ていた夢、だったのです。
 冒頭で三葉が村の生活を嫌い、「都会のイケメン男子に生まれ変わりたい」と言うのですが、ここに新海監督の確信犯ぶりが見て取れます。彼女は本来ならば、こう言いたかったはずです。
「イケメンの男の子が現れて、ゴジラよろしくこんな村破壊しちゃって、私を都会へと連れて行ってくれないかな」。
 クライマックスのカタストロフも極言すれば、村を出て行くことのエクスキューズ、村を否定することのエキセントリックな表現でしかありません。
 しかし今時、そんな映画を作っては、『アナ雪』クラスタだかフェミニストだかが大挙して「ミソジナスなオタク映画ガーーー!!!」と暴れ回ることも、新海監督にはわかっていました。
 だから三葉は「イケメンに変身する」夢を見たのです。
 BLにおいて女の子みたいな男の子と男の子みたいな男の子の恋愛が描かれるのと、それは全く同じに。
 だから瀧はカフェ詣でを趣味とするわけです。何しろ劇中では三葉がカフェすらない自分の村について嘆く姿が、再三描かれていたのですから。
 だから瀧は建築という、彼女に関わる職種に就こうと奔走していたのです。
 本作はあらゆる意味で女の子向け『シン・ゴジラ』でした。
 ぼくは『シン・ゴジラ』を「男の子向け」であると評しました。「男性原理の復権」であるとも書きました*4。更に言えば「他者との共生」という「ポリコレ疲れ」が生んだ、「敵を徹底的にやっつける痛快な男の子向けムービー」でした。
 翻って本作については、同様にフェミニズムという「ポリコレ疲れ」が生んだ、「運命の赤い糸を信じる女の子向けムービー」、「女性原理の復権」を描いたものだった、とでもいった評が可能なのです。漫画家の山田玲司氏が本作を『アナ雪』と比較し、「『少しも寒くないわ』なんて無理!」「恋愛飢餓で爆発寸前!」と女性たちの声を代弁していたのは印象的です*5。
 念を押しておきますが、ぼくは「女の子向け」であることを理由に本作を否定したいわけではありません。むしろ、「萌え」という形で自らの欲求と向きあってきたが故に、オタクがリア充女子にも受ける物語を紡ぎ出せたのではないだろうか、と思うわけです。むろん、また新海監督には「男の子向け」な作品も作って欲しいな、との気持ちも持ってはいますが。
 いずれにせよ、本年は二大オタク監督が日本の「ポリコレ疲れ」を癒すかのような作品を男の子にも、女の子にも向けて発表した。それが快哉をもって迎えられた。
 それはやはり、特筆すべきことなのではないかと思うのです。

*2 岡田斗司夫ゼミ9月4日号延長戦(http://www.nicovideo.jp/watch/1473048114
*3 「「君の名は。」あるいは「シン・ゴジラ」についてのノート」(http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/3d7e4a4508a08f8480c81f340f447043
*4 「『シン・ゴジラ』は『ゴジラ対フェミニスト』である。」(http://asread.info/archives/3536
*5 「新海誠は『君の名は。』でアナ雪に疲れた女性を救った 『ゼブラーマン』漫画家 山田玲司が語る」(http://originalnews.nico/1362

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西部邁

兵頭新児

兵頭新児

投稿者プロフィール

アキバ系ライター。
主著に『ぼくたちの女災社会』
女性ジェンダーが男性にもたらす災いとして「女災」という概念を提唱。
ついついフェミニズム批判ばかりをしていますが、自分では「男性論」、「オタク論」がフィールドだと思っています。
ブロマガ「兵頭新児の女災対策的随想、兵頭新児の女災対策的随想(http://t.co/gpKQJTszv9)」もよろしく。
ご連絡はshin_2_h@ybb.ne.jpまで。

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