『日本式正道論』第四章 儒道
- 2016/11/1
- 思想, 文化, 歴史
- seidou
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第三節 陽明学派
陽明学とは、朱子学の克服を目指し、王守仁[陽明](1472~1528)が提唱した儒教学説のことです。朱子学の「性即理」、「知先行後」説に対して「心即理」、「知行合一」、および「致良知」説を掲げます。陽明学は、朱子学と同じく儒教の伝統的言説の内にあります。
日本では、江戸時代に中江藤樹によって初めて講説されました。理学への不信を基調とし、陽明学は実践倫理と意識され受容されました。
第一項 中江藤樹
中江藤樹(1608~1648)は、江戸前期の儒学者です。日本陽明学派の祖です。近江聖人と呼ばれました。
『翁問答』では、〈太虚神明のほんたいをあきらめ、たてたる身をもつて人倫にまじわり万事に応ずるを、道をおこなふといふ〉とあります。虚空や神々の本体を明らかにし、身を立て人々と交わり、あらゆることに応じていくことが道を行うということだと語られています。
文武の道に関しては、〈戈を止(やめる)といふ二字をあはせて武の字をつくりたり、文道をおこなはんための武道なれば、武道の根は文なり。武道の威をもちいておさむる文道なれば、文道のねは武なり。そのほか万事に文武の二ははなれざるものなり〉とあります。万事において、文と武の両方が必要だと語られています。
また治国は君主が道を行うことで治まると説きます。〈君の心あきらかに道をおこなひたまひぬれば、法度はなくても、をのづから人のこころよくなるものなり〉とあり、〈法治はきびしきほどみだるるものなり〉とし、〈徳治は、先我心を正くして人の心をただしくするもの也〉とまとめています。『韓非子』に代表される法家の考え方である法治では、法律を厳正にこまかく定めることによって政治を行おうとします。これに対し、藤樹は道徳を基にした徳治を主張しています。
また、藤樹の道に対する考え方では、権の道が重要です。権の道とは、臨機応変の道のことです。〈権を準的として工夫せざれば明徳を明(あきらか)にすべき道なし〉とし、〈権の外に道なし。道の外に権なし。権の外に学なく学の外に権なし〉と述べられています。初学者も権を目標として努力工夫すべきだという、藤樹独自の考えが展開されています。ですから、〈道は太虚に充満して身をはなれざるものなれば、もとより平生日用の礼法も道なり。また非常の変に処する義も道なり〉となります。
つまり、常日頃から行う礼法も道であり、非常事態に取る処置もまた義であり道なのだとされているのです。そのため、〈権は道の惣名なれば、権すなはち道、道すなはち権なる故に、道也といはんために権也といへるなり〉と語られているのです。
この権の道の考え方の故に、〈時と処と位とによくかなひて相応したる義理を中庸となづけたり〉というのです。時・所(処)・位とは時代と場所と地位のことです。時代と場所と地位に適う義理が、中庸と呼ばれるのです。
第二項 熊沢蕃山
熊沢蕃山(1619~1691)は、江戸前期の儒学者であり経世家です。短い期間ですが、中江藤樹に陽明学を学び、岡山藩主池田光政に仕えました。晩年、政治批判で幕府に疎まれ、幽囚中に病死しました。
『集義和書』には、〈聖人の道は、五倫の人道〉とあります。五倫の人道とは父子の親・君臣の義・夫婦の別・兄弟の序・朋友の信のことです。『孟子』の[滕文公上]の語に由来します。
文武に関しては、師である中江藤樹から影響を受け、〈世間に、文芸をしり武芸をしりたる者を、文武二道といふは、至極にあらず。これは文武の二芸といふべし。芸ばかりにて知仁勇の徳なくば、二道とは申がたかるべく候〉とあります。文武の二道には、知仁勇の徳が必要なことが示されています。
誠に関しては、〈誠は天の道也。誠を思ふは人の道なり〉とあります。誠のままであるのは天道、誠のままになろうと思い力を尽くすのは人道という考えには『孟子』や『中庸』からの影響が見られます。
また、〈世の、道をいふ者、すこしきなり。故に大道の名あり。大道とは大同なり。俗と共に進むべし、独り抜ずべからず。衆と共に行ふべし〉とあります。その行うべき道はというと、〈それ道は声なく臭もなくして存せり。思に及がたし。思は言にのべがたし。言は書に尽しがたし〉と述べられています。道は声も臭いもなく、思うことも言い表すことも書き尽くすことも困難です。では、どういうものが道かというと、〈欲と云は此形の心の生楽なり。欲の、義にしたがつてうごくを道と云〉とあります。欲とは、肉体的な気質の心の持つ生の楽しみのことです。欲が義にしたがって動くならば、道となるのです。ですから、〈志といふは道に志す也。初学の人、道に志ざして、いまだ道をしらずといへども、心思のむかふ所正〉と述べているのです。道に志せば、心は正しいところへ向かうというのです。
『集義外書』では、〈神代には神道といひ、大代には王道といふ、其實は一なり。大道の世を行めぐる兩輪は文武にて〉とあります。神道も王道も一つであり、文武が重要だと説かれています。
道と法との関係性については、〈道と法とは別なるもの〉とし、〈法は中国の聖人といへども代々に替りござる。况日本へ移しては、行がたき事多くござる。道は三綱五常これなり〉と語られています。法は、時代ごとに変化するため、他国から日本に移してそのまま使用することは出来ません。道は法とは違います。道は三綱五常だとされています。三綱は君臣・父子・夫婦の道で、五常は仁義礼智信の徳のことです。そこで、〈法は聖人時処位に応じて、事の宜きを制作し給へり〉ということになり、道は〈時処位の至善に叶はざれば道にはあらず〉ということになります。時代と場所と地位に応じて制作するのが法であり、時代と場所と地位において善に至るものが道なのだとされています。
また、〈それ道は大路のごとしといへり。衆の共によるべき所なり。五倫の五典十義是なり。いまだ道学の名なかりし前より行はる、天にうくるが故なり。万古不易の道也。礼法は聖人時所位によりて制作し給ふものなれば、古今に通じがたし。よく時にかなへば道に配す、時にかなはざれば道に害あり〉とあります。五典十義についてですが、五典とは、人の踏み行うべき五つの道をいい、『孟子』では〈父子親有り、君臣義有り、夫婦別有り、長幼序有り、朋友信有り〉とあり、『左伝』では〈父の義、母の慈、兄の友、弟の恭、子の孝〉を言います。十義とは、人のふみ行なうべき十の道を言いますが、蕃山は、『心法図解』の人道の図に〈父慈、子孝、君仁、臣忠、夫義、妻聴、兄良、弟悌、朋友、交信〉を記しています。礼儀作法などは、時代・場所・地位などによって変わります。そこで蕃山は、それを適宜に行なうことを説いています。儒書の礼儀作法はほとんど周代に作られたものなので、日本においてそのまま適用できないからです。
蕃山は、時・所(処)・位という視点から、外国思想の模倣を排して、日本思想の自主性へと進んでいるのです。
第三項 佐藤一斉
佐藤一斎(1772~1859)は、江戸後期の儒学者です。一般の教育には朱子学を用いましたが、一斎自身は陽明学も取り入れています。
『言志録』には、〈茫茫たる宇宙、此の道只だ是れ一貫す〉とあります。茫茫とは、ひろく果てしなく、さだかでないさまです。治国については、〈邦を治むるの道は、教養の二途に出でず。教は乾道なり父道なり。養は坤道なり母道なり〉とあります。乾道は天道のことで父道です。坤道は地道のことで母道です。要するに、教えは天より父より、養いは地より母より、ということが示されているのです。
『言志後録』には、〈道は固より窮り無く、堯舜の上善も尽くること無し〉とあります。道は極まりの無いものであり、堯や舜のような聖人の最高の善行でも、尽くすことができなかったというのです。天の道については、〈自ら彊めて息まざるは天の道なり。君子の以す所なり〉とあります。休みなく勉め続けるのが天の道であり、また君子の道でもあるというのです。また、道の心である道心については、〈道心は性なり、人心は情なり〉とあります。道心と人心を、性と情に等置する考え方は、中国には見られない独自なものです。その詳細は、〈心は二つ有るに非ず。其の本体を語れば、則ち之を道心と謂う。性の体なり。其の体躯に渉るよりすれば、則ち之を人心と謂う。情の発するなり〉となります。つまり、心が二つあるわけではなく、心の本性は道心であり、それが身体に関係するのが人心で、人心とは人間の情が外に現れたものだというわけです。性の発動したものが情で、性情は体用の関係にあるとされています。
『言志晩録』には、〈道を求むるには、懇切なるを要し、迫切なるを要せず。懇切なれば深造し、迫切なれば助長す。深造は是れ誠にして、助長は是れ偽りなり〉とあります。道を求める態度は、熱心さが必要で、焦ってはいけないというのです。熱心なら道の奥まで至り、焦れば無理をすることになります。道の奥まで至ることは誠であり、無理をすることは偽りの道だと語られています。
『言志耋録』には、〈慮らずして知る者は天道なり。学ばずして能くする者は地道なり。天地を幷せて此の人を成す〉とあります。つまり、思慮分別を加えず先天的に知るのが天道で、学ばないでも自然にできるのが地道だとされています。この天道と地道を併せて、人間が形成されると考えられています。道と義の関係については、〈義は宜なり。道義を以て本と為す。物に接するの義有り。時に臨むの義有り。常を守るの義有り。変に応ずるの義有り。之を統ぶる者は道義なり〉とあります。義はよろしさとして示されています。そして、諸々のよろしさを統べる基として、道義があるとされています。人道は一斉において、〈人道は只だ是れ誠敬のみ〉と語られています。人の践み行うべき道は、誠と敬の二つだとされているのです。
第四項 大塩中斎
大塩中斎(1793~1837)は、江戸後期の陽明学者です。大塩平八郎の名のほうが有名だと思われます。儒学における原理、および古典における理想による体制批判を貫いた希有な思想家です。天保7年(1836)の飢饉に際して奉行所に救済を請うたが容れられず、蔵書を売って窮民を救いました。翌8年、幕政を批判して大坂で挙兵しましたが敗れて自決しました。
『洗心洞劄記』では道について、〈道の大原は天より出づ〉とあります。『漢書』の[董仲舒伝]からの影響が見られます。人と天と道の関係では、〈人は即ち天なり。学なるものは、天徳を学ぶなり。道を明らかにするとは、天道を明らかにするなり〉とあります。人は天であり、学ぶということは天を学ぶと言うことが語られています。道とは天を明らかにすることだとされているのです。
また、〈道たるや屢しば遷り、変動して居らず、六虚に周流し、上下常无く、剛柔相易り、典要と為すべからず、唯だ変の適く所のままなり〉とあります。分かりやすく言うと、良知の真理性である道は固定的なものではなく、しばしば変化し、天地四方の空間にあまねく流通します。絶えず昇り降りして一定せず、剛毅さと柔軟さが相互に入れかわります。常に固定した法則として捉えることができず、ただ変化流転する動きのままに任せるほかはないのだということです。
その考え方に立った上で、〈道の外に事無く、事の外に道無し。道理は只だ是れ眼前の道理〉と語られています。中斉は、道と事とは一体だと述べているのです。
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