『日本式正道論』第四章 儒道

第五節 古学派・聖学

 本節では、古学派の中でも聖学と呼ばれる類型について述べます。聖学は、山鹿素行に代表されます。

第一項 山鹿素行

 山鹿素行(1622~1685)は、江戸初期の儒学者です。素行は、泰平期における武士の存在根拠を儒教道徳に求め、そこから武士のあるべき姿を士道として提唱しました。
 『聖教要録小序』には、〈それ道は天下の道なり、懐にしてこれを蔵(かく)すべからず〉とあります。ここでの道とは、宇宙(天地)を律する天地の誠が聖人を介して具体化した規範のことです。
 『聖教要録』では、〈聖学は名の為ぞや。人たるの道を学ぶなり。聖教は何の為ぞや。人たるの道を教ふるなり。人学ばざれば則ち道を知らず〉とあり、道を学ぶことの重要性が説かれています。道そのものについては、〈道は日用共に由り当に行なふべき所、条理あるの名なり。天能く運(めぐ)り、地能く載せ、人物能く云為す。おのおのその道ありて違ふべからず。道は行なふ所あるなり。日用以て由り行なふべからざれば、則ち道にあらず。聖人の道は人道なり。古今に通じ上下に亙り、以て由り行なふべし〉と述べられています。道とは日常行うことに条理が伴うことであり、天・地・人のそれぞれに働くものだというのです。そこに違いはなく、日常的に行われていることがすなわち道なのです。聖人の道は人の道であり、古今や身分の上下によらず規範となるものとされています。そこで道という条理は、人が歩く道路に例えられているのです。
 つまり、〈道の名は路上より起これり。人の行くこと必ず路あり〉というわけです。素行においては、〈聖人の道は大路なり、異端の道は小径なり〉と見なされています。

第六節 古学派・古義学

 本節では、古学派の中でも古義学と呼ばれる類型について述べます。古義学は、伊藤仁斎に代表されます。

第一項 伊藤仁斎

 伊藤仁斎(1627~1705)は、江戸前期の古学派を代表する儒学者です。仁斎は『論語』を最上至極宇宙第一の書とし、『孟子』を義疎とし、孔子の教説の本来の意義を求めました。
 『語孟字義』の[天道]では、〈道はなお路のごとし。人の往来通行するゆえんなり。故におよそ物の通行するゆえんの者、みなこれを名づけて道と曰う〉とあります。
 [道]では、〈道はなお路のごとし。人の往来するゆえんなり。故に陰陽こもごも運る、これを天道と謂う。剛柔相須うる、これを地道と謂う。仁義相行なわるる、これを人道と謂う。みな往来の義に取るなり。又曰く、道はなお途のごとし。これに由るときはすなわち行くことを得、これに由らざるときはすなわち行くことを得ず〉とあります。また、〈道とは、人倫日用当に行くべきの路、教えを待って後有るにあらず〉ともあります。
 道と理の関係については[理]で、〈理の字 道の字と相近し。道は往来をもって言う。理は条理をもって言う〉とあり、〈道の字はもと活字、その生生化化の妙を形容するゆえんなり。理の字のごときはもと死字、玉に従い里の声、玉石の文理を謂う〉とあります。活字とは、動作を含む意味の言葉で死字に対します。死字とは、状態の形容をいう言葉です。『童子問』には、〈蓋し道や、性や、心や、皆生物にして死物に非ず〉とあります。道や性質や心は、みんな生き物であり死物ではないとされています。活物と死物については、〈何となれば、流水は源もと有って流行す。活物なり。止水は源と無うして停蓄す。死物なり〉とあります。流れる水が活物として、留まっている水が死物として示されています。
 道と徳の関係については[徳]で、〈道・徳の二字、亦甚だ相近し。道は流行をもって言う。徳は存するところをもって言う。道はおのずから導くところ有り。徳は物を済(な)すところ有り〉とあります。流行とは、変化していく状態のことです。
 [誠]では、〈誠は、実なり〉とされ、〈誠とは、道の全体〉と定義されています。具体的には、〈千言万語、みな人をしてかの誠を尽くさしむるゆえんにあらずということなし。いわゆる仁義礼智、いわゆる孝弟忠信、みな誠をもってこれが本とす〉と語られています。
 [権]では、〈権は即ち是れ経、経は即ち是れ権〉とあります。経は常に行う直正なる処置で、権は時に応じて行う処置のことです。仁斉は、〈権とは、一人の能くするところにして、天下の公共にあらず。道とは、天下の公共にして、一人の私情にあらず〉と述べています。
 [堯・舜すでに没し邪説暴行又作るを論ず]では、〈道二つ。邪と正とのみ。天下あに常道より大なる者有らんや。もし常道を外にして、別に大道有りと謂うときは、すなわちそのいわゆる「大道」という者は、必ず是れ邪説なり。故に人倫の外道無く、仁義の外学無し。人の当に力を務むべきところの者は、人倫のみ〉とあります。道は、人と人との間にあるものであり、その外には無いものだというのです。
 『童子問』でも、道について大いに語られています。[童子問を刊する序]には、〈道の天下に在るや、処として到らずということ無く、時として然らずということ無く、聖人の為めにして存せず、小人の為にして亡びず、古今に亙って変ぜず、四海に放って準有り、日用彝倫の間に行なわれて、声も無く臭も無き理に非ず〉とあります。「彝」は常のことであり、「倫」は仲間のことです。それがどういうものか簡単にいうと、〈其の目四有り。曰く仁義禮智〉となります。
 『童子問』では、人が人倫という意味で使われる場合と、個人という意味で使われる場合があります。人が人倫という意味で使われる場合は、〈人の外に道無く、道の外に人無し。人を以て人の道を行う、何んの知り難く行い難きことか之れ有らん〉とあります。そのとき、〈道とは何ぞ。父子に在っては之を親と謂い、君臣には之を義と謂い、夫婦には之を別と謂い、昆弟には之を序と謂い、朋友には之を信と謂う〉のです。人倫における交わりが道なのだとされています。
 人が個人という意味で使われる場合は、〈道とは人有ると人無きとを待たず、本來自ら有るの物、天地に満ち、人倫に徹し、時として然らずということ無く、處として在らずということ無し〉とあります。道は、個人という単位に関係なく存在するとされています。では、どの単位で存在するのかというと、もちろん人倫という単位です。
 他にも『童子問』から、道について論じられているところをいくつか挙げてみます。〈卑近を忽にする者は、道を識るに非ず〉、〈人道の仁義有るは、猶天道の陰陽有るがごとし。仁義を外にして豈に復た道有らんや〉、〈王道は即ち仁義、仁義の外、復王道有るに非ず〉、〈俗の外に道無く、道の外俗無し〉、〈夫れ道は仁義禮智に至って極まり、教は孝弟忠信に至って盡く〉、〈陰陽往來して、天道成る。剛柔相濟して地道成る。仁義相須いて、人道成る。天の道は陰陽に盡き、地の道は剛柔に盡き、人の道は仁義に盡く〉、〈道とは、中庸に至って極まる〉など、道について様々な角度から語られています。

第二項 伊藤東涯

 伊藤東涯(1670~1736)は、江戸中期の古学派の儒学者です。当時、江戸の荻生徂徠と並び称された大儒です。伊藤仁斎の長男であり、父の思想を祖述し、普及に努めました。
 『古今学変』では、〈道とは何ぞ。仁是れなり〉とあります。仁斉は道を仁だけに限定するのを嫌う傾向がありますが、東涯は道を仁だとはっきりと述べています。
 道と徳の関係については、〈衆人の上に就いて、その同じく行なうところをもって言うときは、すなわちこれを道と謂う。各人の上に就いて、その倶に得るところをもって言うときは、すなわちこれを徳と謂う〉と述べています。
 道と学の関係については、〈道 万世に易わらずして、学に古今の異有り〉とあります。道は変わらないものですが、学問には古今で異なるところがあるとされています。

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