平等と公正
平等は、それ自体として価値にはなりえません。
平等は、異なっている二つ以上のものを同じだと見なすことなのですから、平等が素晴らしいということは、その見なしを素晴らしいと言っていることになります。ですから、その見なしを素晴らしいと思う基準、例えばその基準を公正と呼ぶならば、価値は公正にこそあるのです。
平等と格差の調和が、公正を指し示し、公正が平等と格差の調和をもたらすのです。この構造に対し、卵が先か鶏が先かを問うことにはあまり意味がありません。公正そのものの水準は、この循環構造の中で磨かれていくものだからです。
公正の中身とそのときの状況によって、何を平等と見なすかは変化します。同一の状況においても、公正さが違えば、何を平等と見なすかは異なることがありえます。公正が国家の公正である場合、国家ごとに何を平等と見なすかは異なることがありえるのです。
平等の弊害
世の中が治まるためには、平等と格差を状況に応じて適切に使い分ける必要があります。しかし、平等を社会正義とし、格差に非難の目を向けるとき、世の中の安定は失われます。
簡単に言えば、平等社会において人民は、自身よりも上の人物を平等という名において引きずり下ろします。そうして溜飲を下げるのです。さらに、平等の名において自身の地位を引き上げて、うまい汁を吸おうとします。人民が責任を負わずに、そのことに恥を感じることもない社会が、まともに機能するわけはないのです。
機会の平等と結果の平等
平等における議論では、「機会の平等(Equal opportunity)」と「結果の平等(Equality of outcome, Equality of results)」の違いが問題になることがあります。
人々の向上心を高めるため、機会の平等は正しいが、結果の平等は間違っているという意見があります。しかし、この意見は間違っています。
なぜなら、機会と結果は連動しているからです。時間の積み重ねにおいて人々の営みが続くため、結果は機会に影響を及ぼし、機会は結果に影響を及ぼします。あっさり解答を言えば、機会の平等と格差、および結果の平等と格差の調和が必要だという当たり前の話にしかなりません。
各人が社会へ参加するためにも、一定の結果を保証する仕組みが必要ですし、社会における活力をうながすためにも、一定の機会を保証する仕組みが必要になるのです。社会における各要素間の平衡と、個人の逆転可能性を有した均衡が求められるのです。
平等主義者
平等主義者とは、多くの価値観の中から一つを絶対化し、それに任意の境界線を自分勝手に設定して他者へ押し付けている人たちなのです。ですから平等主義者は、その自身の基準に合わない者を、差別主義者と読んで非難するという、恐るべき人たちのことなのです。
多くの要素の調和という観点から判断すれば、平等主義者とは、差別をしまくっている者たちのことなのです。他人の差別を非難する者は、往々にして、差別大好き人間であることがありえるのです。そういった恐るべき人たちは、世界の豊穣性を犠牲にし、他の価値観を抹殺していきます。そうすることで、平等主義者の理想は成就されることになるのです。
めでたし、めでたし。
平等主義の限界
平等は、至上の価値には成りえません。その理由は、価値観が多様だからです。それぞれの価値観が、互いに連動したり反発したりしているからです。つまり世界の豊穣性が、平等主義などという単純な解決を許さないのです。
ただし、限定的には平等を要求すべき場合があるでしょう。人間の能力は有限ですから、無限の精度を求めるわけにはいかないからです。豊穣な世界に立ち向かうために、人間の認識能力の限界さのゆえに、世界を近似して把握する方法は必要だと考えられます。ですから、この世界において、平等と格差が、それらを判断する公正さが想定されることに、されざるを得ないことになるのです。そして、その公正さが設定ではなく想定でなければならないのならば、公正さの複数性が求められることになります。
なぜなら、人間の公正観念が完全に至ることはありえないと思われるからです。その理由もまた、世界の豊穣性のゆえです。
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