私は手を振っただけだ。でも言わせてもらおう。慰安婦にされたの私だ
フェミニストたちの特徴は、「女性が自衛隊員に手を振ること」が「慰安婦」へと同列に語られてしまう「連想の飛躍」、そして「個と全体の区別」がどうしてもつかない点にあると言えそうです。
フェミニズムの第一義は「ジェンダー規範に基づいた諸々を女性差別であると言い募る」点にあります。これはむろん、「男性が女性へとセクハラすること」を考えた時、一面の真理ではあります。しかし同時に「女性が男性にセクハラされたと濡れ衣を着せること」もまた、同じくジェンダー規範を原因とした行動といえ、一概に男女のどちらかが常に損だとは言えない。彼女らはそこをどうしても認めることができず、ただひたすらに「女性が常に被害者だぞ」といい立てる必要に迫られるあまりに、「自衛隊員に声援を贈るのを勧められること」も「慰安婦」も全く同じにカテゴライズしてしまうのだと言えそうです。
後者の「個と全体の区別」がどうしてもつかない点についてですが、本当にこれこそがフェミニズムの本質ではないかと言いたくなるくらい、彼女らはここの区別をしようとはしません。レイプ事件は当然、平時も起きてはいるわけで、災害時もゼロであったはずはない、そして「ゼロであった」と言っている者などどこにもいないのに、先に引用した正井さんの言葉でもわかるように、そうと言われたのだと嘘をつき続けるのです(ご当人はそう言われたと信じているのでしょう)。
ぼくが本件をブログなどで採り挙げた時も*6、やはりそうした(「レイプ事件はあったぞ」という)書き込みが多くありました。
彼女らはまた、性犯罪の被害者(であると彼女らが感じる人々)へと過剰に自己を投影する傾向が大です。まるで「子供はいないけれども、保育園落ちた」人たちのように。これは佐々木俊尚氏が「弱者憑依」と名づけた心理そのものと言えましょう。そうした主客の混同、個と全体の混同こそがフェミニズムの本質であり、それは彼女らの「個人的なことは政治的である」とのスローガンにも如実に表れているのです。
一方、しかしこうしたフェミニストを批判する声は、非常に小さい。
こうした震災デマは、冒頭に挙げた「朝鮮人が井戸に毒を」と同様に悪質であると言わざるを得ないのですが、批判する者は非常に少ない。
いえ、震災デマについて書かれた本などを見ても、このデマ自体には言及はするものの、その主体がフェミニストであることはどういうわけか隠されている、というパターンが目につきます*7。
インテリ層の中にはいまだフェミニズムを批判することも許されぬ、絶対の正義であると信じきっている方々が大勢いらっしゃいます。彼らを見ていくと、「女性という弱者に寄り添う私」という自意識、それはつまり実は彼女らと同じ「弱者憑依」的な心理に陥っていることに気づきます。
彼ら彼女らは「絶対の正義」に依拠することで自らの政治的立場を固めようと、まるでバームクーヘンの層のように同心円を描いており、しかしその中心にいるはずの「絶対の被害者」は非常に往々にして、まるでバームクーヘンの真ん中のように穴が開いており、実体がない。
あちこちで、目にする光景ではないでしょうか。
*6 「物語の海、揺れる島(http://blog.goo.ne.jp/hyodoshinji/e/f77a77d0e768c37b34cdfd4c3340381b)」、「エンタのフェミ様!(http://blog.goo.ne.jp/hyodoshinji/e/15d7db0f71b1cad340b2bd3b88944e20)」など。
本件についてもう少し詳しく触れているので、よかったらご覧ください。
*7 荻上チキ『検証 東日本大震災の流言・デマ (光文社新書)』、ASIOS『検証 大震災の予言・陰謀論 “震災文化人たち”の情報は正しいか』など。
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