思想遊戯(3)- 桜の章(Ⅲ) 和歌

一葉「因果の履行、そして、因果の逆転。この二つは、どのようにできあがるか分かりますか?」
 僕は、思考を整理して答える。
智樹「それは、因果は世界の理(ことわり)として、そして因果の逆転は、思考の間違いとして・・・です。」
一葉「ある意味で、正しい答えです。」
 彼女は、僕を見据えて述べた。僕は疑問を口にする。
智樹「ある意味とは、どういうことでしょうか?」
一葉「正しくは、因果の履行も、因果の逆転も、心が認識することによって可能になります。確かに、科学という特定の方法論に則った場合、因果の履行は真となり、因果の逆転は偽となります。しかし、心の認識という観点から考えるなら、因果の履行と因果の逆転は、ともにありえる二つの選択肢になります。」
 僕は、彼女の言葉を頭の中で必死に反芻して考える。
智樹「ええと、あまり理解できていないのですが、因果の逆転は科学的には間違っていても、人間の心の上ではありえるということでしょうか?」
一葉「そうですね。もう少し正確に言うなら、認識論的にありえる選択肢に対して、正しいとか間違っているとか言うためには、何らかの価値判断を導入する必要があります。その一つに、科学という方法があるわけですが、科学そのものは、価値判断を原理的に行えません。そのため、科学は正しいという科学外からの判断を密輸入した場合に、因果の逆転は間違いだという判断が為されるのです。」
 僕は、彼女の言っていることの半分も理解できていない。でも、科学的ということにこだわらなければ、因果の逆転はありえるし、それを楽しむこともできるのではないか? その程度のことは、僕にだって、彼女の話から理解できた、と思う。
智樹「正直、半分も分かっていないのかもしれませんが、興味深くはあります。科学というものにこだわらなければ、因果の逆転も楽しむことができるということですよね?」
 そう言う僕を、彼女は少し遠い視線で眺める。
一葉「はい。そうですね。では、そろそろ次ぎの桜の歌へいきましょう。」
 そう言って、彼女は歌を奏でる。

 桜花
 咲きかも散ると
 見るまでに
 誰かも此処に
 見えて散り行く
 [巻第十二-三一二九]

 この歌の意味は、けっこう分かりやすいと思った。
智樹「桜が散ることと、人が散り散りになることをかけているのですか?」
一葉「はい。桜が咲いて散っていく様子を、その桜を見る人々が現れては散り散りに別れていく様子と重ねているのです。」
智樹「花見の風景なんか、そんな感じですね。」
一葉「そうですね。桜が散ると、人もそこから散って行くのですね。風情があると思います。」
智樹「もうすぐ、至るところで見られる光景ですね。」
 彼女は、僕の意見に静かに微笑んだ。僕も彼女に微笑む。
一葉「次の歌は、桜と無常をからめた歌です。」
 彼女は、歌を詠う。

 世間は数なきものか
 春花の散りの乱ひに
 死ぬべき思へば
 [巻第十七-三九六三]

 死という単語が出てきて、僕は緊張する。
智樹「死と、散ることをかけているように思えます。」
一葉「はい。この歌では、世間が数え上げるほどもない儚いものだという考えが示されています。その上で、春の花が散るのにまぎれて死ぬべきことを思っているのです。」
智樹「死ぬことを思う・・・。」
 彼女は、神妙な表情になった。
一葉「佳山くんは、死を考えることはありますか?」
 その質問の唐突さに驚く。
智樹「いえ、あまり、考えたことはないと思いますけど・・・。」
一葉「では、世の中は儚いものだと思うことはありますか?」
 僕は少し考えてから答えた。
智樹「世の中は、儚いものだと思います。そういった意味では、例えば、今日の話が終わって帰る途中で、僕が車にはねられて死ぬかもしれないわけですし。」
智樹「そうですね。人間、いつ死んでしまうか分かりませんものね。」
 僕は、気になったことを聞いてみた。
智樹「あの、もしかして、こういうことを聞くのは失礼かもしれないのですが、過去に何かありましたか?」
 彼女は、薄く微笑む。
一葉「いいえ、特には。ただ、私が、おかしなことを考えてしまうタイプの人間だというだけのことです。」
智樹「おかしなこととは思いませんが・・・。」
一葉「そうでしょうか? 花の散りと自らの死を重ねて考えてみる。この感性が、私は大好きです。でも、この感性は、今の日本人にはすでにほとんど失われていて、持っていることが奇妙に思われるようなものなのではないでしょうか?」
 僕は、何と応えれば良いか判断に困った。
智樹「そんなことは・・・。」
一葉「ありませんか?」
智樹「難しいですね。そうかもしれないし、そうではないかもしれません。」
 彼女は、少し考え込んだ。僕は、彼女が口を開くのをじっと待っていた。
一葉「佳山くん。江戸後期の俳句人に、小林一茶という人がいます。」
智樹「小林一茶ですか?」
一葉「ええ、一茶が桜を詠ったものがあります。」
 そう言って、彼女は一茶が詠った歌を奏でる。

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