フラッシュバック 90s【Report.30】規制緩和の代償・自己責任論~失われていく慣習~
- 2016/4/4
- 社会, 経済
- 90s, feature3
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お蔭様で、連載、30回目を迎えることができました。
コラムというのは、小説と違って、最終回が原則ないので、いつまで続けるかというのも考えたりしています。
そういえば、いいとも最終回の際、中居くんのコメントにこうありました。
他のジャンルは評判がよかろうが、悪かろうが、終わりがあるんですけど、
バラエティって…ゴールないところで、終わらなければならないので、
こんなに…残酷なことがあるのかなと、思います。
この企画も、いいともと比べるのは非常に厚かましいのですが、いずれ終わるべく時に終わるでしょう。ただ、それが、今回の記事でないことだけは確かです。
というのも、結構、90年代を振り返る色々な企画がネットベースで見受けられます。エキサイトニュースでの特集だとか、ウィイレ部屋を再現した六本木ヒルズの企画など。。。
ただ、政治や経済方面から切っているのが少ないのは、やはり、70年代、80年代に比べると、世界での日本の影響力が如実に下がっていたからなのだと思います。
その90年代日本の断末魔が、1995年より本格的に始まった、「規制緩和」だったわけです。
「護送船団方式」を解体した90年代
主権回復以来、日本の経済界や市場は官僚主導でコントロールされてきました。「護送船団方式」です。いや、国全体が「護送船団方式」だったともいえるでしょう。聞く話では、90年代までは地方自治体において優秀な人材というのは国からどれだけお金を引っ張ってこれるかだったという経験談もちらほら聞きます。
特に顕著なのが、金融行政で、そのクライマックスが1997年、山一證券の廃業だったといえるでしょう。全ての責任を負わされる形で社長を引き受けた、野沢氏が会見で涙ながらに語ったこの言葉が今でも強く印象に残っています。
『みんな私ら(経営陣)が悪いんであって、社員は悪くありませんから!
どうか社員に応援をしてやってください。優秀な社員がたくさんいます、よろしくお願い申し上げます、私達が悪いんです。社員は悪くございません。』
当時、小学4年生だった私の頭にも焼き付いていますし、母は「立派な社長だ」と褒め、父は「証券会社がつぶれるのか」と落胆していたことも強く覚えています。
私としては、細かいことはまだわからずとも、何かとんでもないことが起こりつつあるのだという漠然とした感覚を持っていました。今考えれば、「護送船団方式」の解体を肌感覚で感じていたのだと思います。
「規制緩和推進計画」と自由と自己責任
1995年、日本国政府より、「規制緩和推進計画」が提示されます。
その計画の基本理念は
「経済的規制は原則自由、社会的規制は目的に照らし最小限」
というものでした。
自由という言葉は聞こえが良いかもしれませんが、要は経済活動における様々なトラブルに対して、政府は原則的に不介入であるということです。最低限の規制およびルールを作り、その他は民間に委譲するということです。
こういう構造モデルはいわゆる「アメリカ型社会」として90年代のころのメディアは解説していました。そして、この構造モデルが入ってくると同時に取り入れられた概念が「自己責任」というものです。
「自己責任」という言葉が市民権を得るのは、2002年のイラク日本人人質事件以降ですが、90年代後半の規制緩和と切っても切れない関係にある言葉です。要は、市場が自由性を取り入れる代わり、そこでの経済的成功・失敗はプレーヤーである人々の「自己責任」に属するのであり、救済や援助は必要最低限でよいという考え方が根底にあります。
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