思想遊戯(3)- 桜の章(Ⅲ) 和歌

第四項

一葉「今日は、『古今和歌集』に収められている桜の歌を見ていきましょう。」
 彼女は、革製の手帳を広げる。
智樹「前回の『万葉集』に引き続きですね。」
一葉「はい。『古今和歌集』は、平安時代前期の勅撰和歌集です。最初に編纂された勅撰和歌集ですね。」
智樹「すいません。勅撰和歌集って何ですか?」
一葉「勅撰和歌集とは、天皇の命によって編集された歌集のことです。まずは、『古今和歌集』の[春歌]に収められている桜の歌から見ていきましょう。」
 彼女は歌を詠う。彼女の和歌の朗読は、とても心地よい。

 春霞
 たなびく山の
 さくら花
 うつろはむとや
 色かはりゆく
 [巻第二 春歌下 六九]

智樹「前半は分かりましたが、後半の部分がいまいち分からないのですが・・・。」
一葉「散り際に向かって桜の色が変わって行くという意味です。春の霞がたなびいている山に咲く桜。その桜の色が、散り際に向かって変わって行く光景が描写されているのです。」
 僕は、散る間際に色を変え行く桜を想像した。それは、とても幻想的だ。
智樹「僕は、桜の花が満開のときや、花びらが散っているときなんかも好きなんですが、散る間際までは気にしたことはなかったです。」
一葉「普通はそうですよね。桜の花と一言でいっても、細かな時期の違いがあり、それらに注目すると、また新しい発見があります。『古今和歌集』には、この歌と前半が同じ歌があります。[恋歌]ですね。詠んでみますね。」

 春霞
 たなびく山の
 さくら花
 見れどもあかぬ
 君にもあるかな
 [巻第十四 恋歌四 六八四]

 確かに前半は同じだ。だけど・・・。
智樹「やっぱり、前半は分かりますけど、後半が分かりません。」
一葉「桜の花は、いくら見ていても飽きることはないように、お逢いするあなたも見飽きることはないという歌です。」
 そう言って、彼女は静かに微笑む。僕は、気恥ずかしくなる。
智樹「なんか、歌にのせて思いを伝えるっていうのは奥ゆかしいかと思いきや、けっこうストレートというか、はっきりとした気持ちを伝えている感じですね。」
一葉「そうですね。素敵な歌です。」
 ここで気の利いたことの一つや二つ言えればいいのだけれど、僕は恥ずかしくなって次の歌をうながしてしまう。
智樹「次の歌は何ですか?」
一葉「次の歌は、桜が散ることそのものについて歌ったものです。」
 気持ちが高ぶっている僕をよそに、彼女は落ち着いて語るのだ。

 のこりなく
 ちるぞめでたき
 桜花
 ありて世の中
 はてのうければ
 [巻第二 春歌下 七一]

智樹「どういう意味でしょうか?」
一葉「詠み人は、桜の花がきれいさっぱり散ってしまうのを素晴らしいと考えています。世の中というものは、いつまでもあれば、その果ては嫌なものになってしまうというのです。」
 僕は少し驚いた。
智樹「桜が散ることが素晴らしいのは分かりますが、そのことと重ねて、世の中がなくなることを肯定しているのですか?」
一葉「そうですね。すごい歌だと思いませんか?」
 僕はうなずいた。確かに、すごい歌だ。
智樹「正直、『万葉集』や『古今和歌集』など、昔の人が単純に花がきれいだとか、そんなことを集めているだけだと思っていました。お恥ずかしいですが。でも、とても深いですね・・・。」
 彼女は微笑む。
一葉「深いですね。」
智樹「深いです・・・。」
 僕らは、しばらく黙ってお互いを見詰め合っていた。

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