思想遊戯(3)- 桜の章(Ⅲ) 和歌
- 2016/4/1
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第二項
噴水の近くのベンチに僕らは腰掛けた。上条さんは、いつもの革製の手帳を広げた。
一葉「『万葉集』には、桜についての素敵な和歌がたくさんあります。」
智樹「万葉集ですか?」
一葉「『万葉集』は、7世紀後半から8世紀後半頃にかけて編まれた、日本に残っている最古の和歌集です。様々な身分の人たちが詠んだ歌が、4500首以上も集められています。『万葉集』の名前の由来については、たくさんの言葉を集めたものという説と、末永く伝えられるべき歌集だという説があります。」
僕は素直に感心した。
智樹「けっこうな量の歌が収められているのですね。」
一葉「そうですね。桜にまつわる歌を紹介しますね。」
そう言って、彼女は『万葉集』の歌を詠った。
嬢子らが 插頭のために
遊士が 蘰のためと
敷き坐せる 国のはたてに
咲きにける 桜の花の にほひはもあなに
[巻第八-一四二九]
彼女は、透き通った声で音を奏でる。
僕は彼女の声に耳を澄ませた。意味はぜんぜん分からなかったけれど。
智樹「どんな意味なのですか?」
一葉「少女たちが髪を飾る花のように、風流な人が髪飾りとする花のように、大君が治める国の果てまで咲いている桜の花が美しい、という意味です。」
僕は、日本の隅々まで咲き誇る桜の花を想った。たしかに、それはとても美しい光景だと思えた。不思議な気持ちだ。彼女といると、僕は不思議な気持ちになれる。
智樹「大君とは、天皇のことですか?」
一葉「はい。その通りです。」
智樹「『万葉集』の時代から、日本には桜が咲いていたんですね。」
一葉「はい。ただ、今の日本で見ることができる桜は、たいていはソメイヨシノ(染井吉野)ですが、当時は山桜が主でした。」
智樹「そうなんですか? 何か違うのですか?」
一葉「山桜は、バラ科サクラ属の落葉高木です。日本の野生の桜の代表的な種であり、和歌に数多く詠まれています。ソメイヨシノは、江戸の中期から末期の時期に、系統の違う二つの桜の交配で生まれたと考えられている種です。ソメイヨシノは種子では増えず、全国各地にある現在のソメイヨシノは、すべて人の手で、接木(つぎき)などで増やしたものです。いわゆるクローンですね。」
智樹「クローンですか。」
一葉「はい。ソメイヨシノは、現在の桜で最も多く植えられた品種です。桜の開花予想などは、ソメイヨシノの開花時期だったりします。観賞用としての代表種ですね。」
智樹「山桜とソメイヨシノ・・・。」
一葉「次の歌へ行きましょう。次は、桜と無常観を重ね合わせた歌です。」
そう言って、彼女は歌を詠う。
世間も常にしあらねば
屋戸にある桜の花の散れる頃かも
[巻第八-一四五九]
今度の歌は、何となく意味が分かる気がした。
智樹「世の中が移ろいやすいことについて、桜の花が散ってしまうことと重ねているように聞こえました。世の中が無常であり、桜の花も散ってしまうということでしょうか?」
一葉「世間も移ろうものですから、家に咲いている桜の花とて散っている頃でしょうと詠まれていますね。」
少し違ったか・・・。でも、そんなに外れてもいないかな。
智樹「桜の花って、こういう言い方が良いのか分からないのですが、無常観と良く合う気がします。」
一葉「はい。そうですね。私は桜の花が散るのを見ると、世の中は移ろって、いつまでも変わらないものはないのだなぁ・・・という気持ちになります。」
僕は、彼女の考えと自分の考えが近いことが分かって嬉しくなる。
智樹「そうですよね。そうなんですよ。桜の花が散るのは、美しいんですが、美しいからこそ、それが終わってしまうことに、何とも言えない感じがするんですよねぇ。」
僕は彼女を見詰めて笑った。彼女も静かに微笑んでくれた。
一葉「次の歌は、恋の歌です。」
桜花
時は過ぎねど
見る人の
恋の盛りと
今し散るらむ
[巻第十-一八五五]
恋について語られているのは分かるけど、詳しい内容までは分からなかった。
智樹「恋について、桜と結び付けて詠われているのですか?」
一葉「はい。桜の花はまだ散る時期になってはいないのですが、桜を見る人の恋しさの盛りが今だから散るのだろうか。そう詠っているのです。」
僕は不思議な印象を受けた。
智樹「人の感情が、桜の花が咲いたり散ったりするのに影響を及ぼすということでしょうか?」
一葉「日本には、言霊(ことだま)という考え方があります。言霊とは、言葉が事柄に及ぼす霊力のことです。日本人は古来より、言葉が事柄化することを重視してきました。『万葉集』には、言葉の魂が人を助ける国であると詠った歌もあります。」
言霊という言葉は聞いたことがある。その考え方は幻想的かもしれないが、僕はちょっと笑ってしまった。
智樹「でも、それって、恋しさを歌に詠んだから、桜が散る時期より前に散ったってことでしょう? なんか、ぶっとんでる気がしますよね?」
そう言った僕を、彼女は不思議そうに見詰める。
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