果たして、「狡猾な大人たちと消耗させられる若者たち」という構図は正しいのか?
このような現場の様子や、メディアの報道に関しては、古谷氏は「狡猾な大人たちと消耗させられる若者たち」という構図を描き出しています。もちろん、そのような面が存在することは否定しえないでしょうが、また同時に、逆の構造も存在するように思えてなりません。つまり、「大人を利用する若者と、若者に媚びる大人たち」という構図です。
若者は常に自己表現の場と、他者からの賞賛を求めるものですが、この場合の他者とは基本的に大人たちではなく、常に同年代の若者たちのことです。であるなら、普通は、わざわざ同年代からは敬遠されるような政治活動ではなく、もっと勉学やら音楽やらスポーツやら芸術やらのパフォーマンスで目立とうとしそうなものですが、彼らは、もっと回りくどいアプローチをとります。それが、どういう方法なのかというと、まずは大人(主にメディアや有名人)の興味と関心を引く、そして、メディアや有名な知識人等の賞賛や承認を得ることで、「メディアや有名人から認められ賞賛されている俺(あるいは俺たち)って凄いだろう?!」というアピールによって同年代からの賞賛を得ようとしているのではないかと私は思うのです。
さらに、このような若者たちに取り入ろうとする大人や知識人連中が存在していることもまたややこしい構造を生み出します、先日とあるきっかけがあり元『実話ナックルズ』編集長の久田将義氏とメールでやりとりしたのですが、氏からこのようなメールが来ました。
仲の良いある評論家が現場に行った感想を「僕たち文化人が行くと持て囃されてそれを嬉々としている学者もいた」とのことでした。
(メール引用)
要は、どこか共依存しているような構造がある。ただし、このような構図を外から眺めた場合、どちらかというとメディアや大人たちを巧妙に、同年代からの注目や賞賛を得るという目的で利用しているのが若者たちの方で、そのような若者たちに上手く煽てられ利用されながら良い気になったり媚びたりしている間抜けで情けない大人たちというような気持ち悪い側面の方が、「狡猾な大人たちと消耗させられる若者たち」という面以上に本質があるように思うのです。
シールズ活動の問題点と今後の課題
このような自己表現、承認や賞賛を動機とした政治運動、政治活動はどうしてもその内容が空疎なものとなりがちです。
私自身としては、政治の分野にパフォーマンス的な要素や、エンタメ的な要素を取り入れるのが必ずしも悪いとは思いませんが、政治活動である以上、本来それは知的なものと両輪でなければならないはずです。その点で、シールズなどは、あまりにもパフォーマンス偏重ですので、それほど激しく批判するつもりもないですが、シールズを取り巻く社会現象などには興味深い側面があるものの、彼等の主張自体には、ほとんど見るべきものも、注目に値するものはないかなと思います。話題先行、パフォーマンス先行の印象があまりにも強いです。
ですので、今後の課題としては、もう一度哲学的政治思想的な観点を取り入れながら議論を深めていくような活動にも力を入れ、同時に、大人たちが気に入りそうな「純粋無垢な若者たち」といった御仕着せの優等生的学生左翼運動のイメージに留まるのではなく、そのようなイメージを良い意味で打ち破るような思想的、あるいは理念上の独創性、独自性を打ち出せていけるなら、ただの一過性のブームにとどまることなく、社会の中での独自の地位や影響力を保持できる可能性もあるのではないかと思います。
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