若者のデモはメディアの消耗品

若者の代弁者ではない

 大学生と言えば合コン、サークル、アルバイトと相場が決まっている。私の学生生活は、最もアクティブに青春を謳歌していた人間よりもかなり陰惨ではあったものの、しかしこの三つは全て経験している。
 もし「SEALDs」のメンバーがこの三つを全て経験したうえで、なおかつイデオロギーの汚染を受けているとなると、またそれは別の嫉妬が惹起されることになるが、若い頃から政治的活動を行うのは、やはり標準的な学生生活に比べると「異形」だ。この感覚は、私が大学生だった十年前とさして変わっていないだろう。
 話を七月十日の国会前に戻そう。「SEALDs」のメンバーはたしかに若い。しかし、聴衆のほとんどは同世代ではなく上の世代であった。私はここに「異形」の輪郭を感じる。
 若者が、若者ではなく中高年に語りかけて支持を受けているという現状からは、「SEALDs」が決して若者世代の代弁者ではないことを明確に物語っている。
 冒頭、『週刊ポスト』誌の「総理がSEALDsを非常に気にしている」というのは、「SEALDs」を若者世代の総意であると錯覚しているからであろう。総理も若者世代への訴求としてニコニコ生放送に出演するなどの「対抗措置」を取ったが、その措置は無意味だし、その危惧は杞憂だ。
「SEALDs」の語りは、同世代に届いているとはとても思えない。繰り返すように、その程度や方法の軽重はあるにせよ、若者が政治的活動を行うというそもそもが「異形」な状態であり、「無垢」とは程遠いからだ。

日常に回帰できるか

 十八歳選挙権が、来年夏の参院選から実施されることが確実となった。これを受けて、若者の政治参加に関する話題が盛んに論じられている。私も、十八歳選挙権には原則的には賛成だが、決して手放しで喜べるものではない。
 なぜなら、「SEALDs」や「ふるえる」デモと違う、本当の意味で政治的知識や社会素養のないものが、適切な投票政党や候補者を選定することは極めて難しいからだ。
 私はかつて、政治知識の全くない無垢の交際相手を半ば強引に投票所に連れて行き、その投票先を聞いたことがある。すると、彼女はある過激な団体が主体となった泡沫政党に一票を投じたと明朗に答えた。その理由は、「(党の)名前が面白いから」。
 政治的リテラシーがゼロの無垢なる人間が、真実を指摘しているとは限らない。いやむしろ、無垢なる者こそが真に危険な行為を、何の警戒心もなく支持することが往々にしてある。無垢なる者の指摘にこそ真実が含まれているとする「王様は裸だ」史観は、「子供は純粋だ」という発想と全く同質のものだ。
 子供ほど残酷で残忍な存在はいない。子供は平気で虫を炙り殺し、他者を殴って中傷し、物を盗み、取り返しのつかない悪行を行う。悲惨ないじめや暴力、些細な行き違いを原因とする殺人事件は、子供間において決して珍しいものではない。
 その無垢さゆえの残忍性、幼稚性、世界観の狭隘性は、当然、教育(学習)と人生経験によって徐々に改善されていく。無垢は無知と同義であり、無知を肯定するような言説は間違っている。
 子供が好きなものや若者(十代)が好むものを、またぞろ「若者文化」「ネット文化」などとして持ち上げるような一部の風潮には、間違いなく「無垢なる者の支持するものは善に違いない」という世界観があるが、無垢や無知は恥ずべきことである。
 だから若者を無垢なる者として設定し、その向く方向をひたすら追いかけるという大メディアの態度には、社会的有益性も政治的意義も存在しない。
「SEALDs」や「ふるえる」デモは、私からすると無垢な存在に偽装した「異形」の若者たちだ。しかし、それならば完全に「異形」の存在として突き進むのも一手だ。本格的に政治や社会や法を勉強し、何か一家言持つようになってから改めて「反安倍」「反安保法制」を叫ぶなら、私は特段、反対の感情を抱かない。
 ところが彼らの現状は、実質的には無垢でもなく、また完全にイデオロギーの体系に汚染されているわけでもない中途半端な状況である。塗装だけを施した自動車の骨組みに車輪を付けて工場から引っ張り出してきたような、そんな印象も受ける。であるがゆえに、危うい。
 中途半端な状況のまま、イデオロギーの方向に猛烈に走りだしている「半無垢」の存在である彼らの周りには、すでに様々な思惑を持った人間が近づいているだろう。彼らが望むと望まないとにかかわらず、彼らの行く手にはイデオロギー界隈の混沌と理不尽が待っているだろう。
 なまじ全国に取り上げられた彼らには、ある種の自意識もあるはずである。彼らが日常に回帰する道は険しいものになるに違いない。

大人の「消耗品」

 若者は脆くて弱い。ちょっとぶつけるとヒビが入ってしまうガラス細工のように。だから彼らを、上の世代はますます慎重に扱わなければならない。彼らを無垢の存在と規定して「王様は裸だ」と言わせておくのはカタルシスだが、本当の意味ではイデオロギーの正当性を担保するためだけの体の良い消耗品として扱っているのではないか。
「私たちは物ではない」(we are not things.)。映画『マッドマックス 怒りのデスロード』(ジョージ・ミラー監督)で、子供を産むためだけの「物体」として高齢の権力者に飼育されていた若い女たちが、命がけの反乱に参加した際の置き台詞だ。
 若者が怒るべき相手は、実は「安倍政権」や「安保法制」なのではなく、自分たちをイデオロギー補強のための「消耗品」として扱う大人たちではないのか。

月刊WiLL2015年9月号この記事は月刊WiLL 2015年9月号に掲載されています。他の記事も読むにはコチラ

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西部邁

古谷経衡

古谷経衡評論家/著述家

投稿者プロフィール

1982年札幌市生まれ。立命館大学文学部史学科卒。猫派。著書に『若者は本当に右傾化しているのか』(アスペクト)、『反日メディアの正体』(KKベストセラーズ)、『ネット右翼の逆襲』『クールジャパンの嘘』(共に総和社)など多数。
Twitter @aniotahosyu|Facebook tsunehira.furuya
古谷経衡公式サイト http://www.furuyatsunehira.com/

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