若者のデモはメディアの消耗品

若者は無垢?

 テレビ画面では抗議集会の中心点である「SEALDs」のメンバーの姿のみを切り取るから、まるでこの集会に若者のみが集まっているというイメージを与えているが、それは誤解だ。実際に現地に行ってみれば、抗議集会の参加者に「本当の意味での若者」が驚くほど少ないことが分かる。
 つまり、「SEALDs」の発する言葉は同世代に向けられた言語ではなく、反安倍のイデオロギー性向の強い中高年に向けられた言語である、と解釈しても差し支えないだろう。
「SEALDs」を取り上げる既成の大手マスメディアの文脈のなかには、彼らを無垢(イノセント)の存在として捉えようとする潮汐力が明らかに作用している。
 奥田さんはマイクを片手に「~っス」「まじで」という「若者言語」を多用しているが、もうすぐ就職という大学四年生が学食で友人と会話するような語彙を公衆の面前で多用するところに、無垢の「演出」を感じる。
「ふるえる」デモも、アーティストの若年層に人気の西野カナさんが歌う「会いたくて震える」という歌詞の部分から拝借したものだそうだが、そこにも無垢の「演出」を感じる。
 彼らは中高年に訴求することを前提として、意識的に無垢を「演出」しているのか。
 この無垢が演出か否かは置いておくとしても、その無垢にこそ、既成の大手マスメディアが「喰いついている」ことはたしかだろう。六月二十七日の渋谷街宣をはじめ七月十日の国会前にも、地上波各局や新聞社が勢揃い。海外メディアまで来ていた。
「若者が安保法案に反対」「ギャルが戦争反対デモを主催」。どちらのヘッドラインにも、「若者やギャルは政治に無関心のはず」というこれまでの既成常識を踏み外す部分に、大人たちが心洗われる「カタルシス」を感じさせる構成になっている。
 これが、大手マスメディアが「SEA-LDs」や「ふるえる」デモを競うように大きく取り上げる理由だろう。
 なぜか。それは前提的に「若者」という存在が政治的無関心層の象徴であり、そうであるはずの彼らが政治的な主張や指摘をするのが「物珍しい」(希少)と映るからである。
 しかし、単に「物珍しさ」だけが理由ではない。「若者」という存在が無垢であるという思い込みがあるからこそ、その無垢なる者の指摘には真実が含まれている、と周辺の大人が錯覚をしているからだ。これこそが、最も大きなポイントである。
「安倍は裸だ!」
「裸の王様」は、世界的に有名なアンデルセン童話だ。とある国の王様に二人の詐欺師が近づいてくる。「王様、この着物は愚か者には見えない特別の布でございます」。詐欺師の甘言にまんまと乗せられた王様は、裸のまま城下をパレードする。群衆は馬鹿であることを悟られぬよう、本当は存在しない王の着衣を賞賛する。王も同様に誇る。
 するとそこに一人の子供が現れ、「王様は裸だ!」と叫ぶ。無垢な子供がを言うはずはない。詐欺師は死刑になる──。「裸の王様」という寓話には、無垢なる者が指摘することこそが真実である、という世界観が根底にある。
 無垢なる者には利害関係が存在しておらず、なまじ知識による色眼鏡を持たないため、無垢なる者の放つ言葉には真実が含有されている、というのがこのお話の骨子だ。
 もうお気づきだと思うが、「SEAL-Ds」や「ふるえる」デモの学生たちは「裸の王様」でいうところの、王が裸であると告げる子供の役であり、「裸である王」の役が安倍総理である。
 彼らが二十歳そこそこの社会経験をほとんど有さず、また専門的で体系的な知識も有さない「無垢なる」存在であるからこそ、彼らの放つ「反安倍」「反安保法制」という言葉には真実が含まれている、と周囲の大人は意識的にも無意識的にも考えてしまう。
 ならば、「安倍が裸だ」と指摘するのは、イデオロギーに汚染された高齢者よりも、無垢な「子供」のほうが明らかに好都合であろう。
 若者だけで構成される組織が「反安倍」「反安保法制」を叫べば、それらは「王様は裸である」と叫ぶ子供の如きものであり、「反安倍」「反安保法制」という自分たちの主張の方向性は正しいのであるということの担保にするため、その動向に殺到するのだ。
 主張の貧弱性、幼稚性を度外視して、「SEALDs」や「ふるえる」デモを「若者である」「ギャルである」というだけで、既存の大手マスメディアが取り上げる最大の理由はこれだ。
 だからこそ、反安倍や反安保法制を叫ぶのは、イデオロギーや組織内序列に汚染された年配者では不適格なのである。

イデオロギー汚染の症状

 七月十日の国会前抗議集会では、実は「SEALDs」の周辺で数多くの小さな団体が反安倍・反安保法制を叫んでいたが、大手マスメディアは彼らの動向には見向きもしなかった。
 なぜなら、その小さな団体の構成員は中高年であり、無垢なる存在ではなかったからだ。
 私が「SEALDs」に感じた無垢の「演出」という印象も、このような「無垢なる者こそが真実を言い当てている」と考える上位世代の持つ世界観を承知したうえでの巧妙な計算のような気がしてならないからだ。
 イデオロギー勢力は、常に若者を利用したがっている。若者は無知・無経験であると同時に無垢の存在であって、その無垢な存在が発する言葉こそ本質的であり、真実である──と信じているからである。
 共産党や社民党、あるいは時として右派勢力が実施するデモや街宣活動で、若年参加者をデモの先頭に立たせたり、街宣車に乗せたりするのは、無垢なる者からの支持を担保として己の正当性を補強したいからにほかならない。
 しかし、本当に彼らのような若者を無垢な存在と見做してよいのだろうか。そして、無垢なる者の指摘には本当に傾聴に足る真実が含まれているのだろうか。
 私が大学生時代、学内で民青(日本民主青年同盟)に所属する学生らが無許可でビラを配ったとして、厳重注意のうえ停学処分になったことが何度もあった。
 彼らは、小泉内閣がブッシュの手先になって日本を戦争に巻き込もうとしている、という内容の檄文を配っていた。時にはそのなかに、大学当局への批判も含まれていたように回想する。
 彼らは明らかに政治的主張をしていたが、当時の大学生の総意を代弁したものではないことも明らかだった。私たちは構内で、小泉と大学当局を大声で呪詛しながらビラ配りをする政治的な学生を冷ややかな目線で見つめ、「あんな変な連中に絶対にかかわらないようにしよう」と陰口を言い合っていた。
 二十歳そこそこで政治的な活動をする人間はすでに既存のイデオロギーに毒されている。断っておくが、私は「SEALDs」や「ふるえる」デモが民青と同等であるというつもりは毛頭ない。前述のとおり、彼らの外面上の洗練性には嫉妬すら感じるからだ。
 しかし、彼らの主張はそのやり口が相当程度穏健になっただけで、既存のイデオロギーからの少なくない汚染を発見する。

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西部邁

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  1. 2016-2-24

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