適切な前提をどう立てるか
上述の通り、正しい結論を導くには「学説」といえども鵜呑みにせず、「現実と合致した適切な前提を立て、論理的に考え、あるいは議論する」必要がありますが、この「現実と合致した前提を立てる」というのがそう簡単ではありません。
上記諸説の中には時間の経過と共に既に説得力を失ってしまったもの(例えば(3)。「不良債権問題」は2005年でほぼ解決しましたが、その後も停滞状況は続いています)もありますが、どれもそれなりに「もっともらしさ」を備えていて、何となく世の中に蔓延しています。
なぜ「もっともらしい」かというと、「自分の目の前(ミクロの世界)」や短期的になら、思い当たる節が無いわけではなく、その意味では「現実と合致した前提」と言えなくもないからです。
しかし、問題は「日本経済の失われた20年」というマクロかつ長期にわたる現象です。
従って前提から論理的に導いた結論が、そうした「マクロかつ長期の現実」と合致していなければ、いくら自分の目の前の現実と合致していても「適切な前提」とは言えず、より適切な結論を導く上で、場合によっては思考回路から切り捨てる(少なくとも議論の本筋とは関係が乏しいものとして、今回は脇に置いておく)必要があると考えられます。
その主な選別基準となるのが、長期的なマクロ経済統計であったり、場合によっては歴史的な事例というわけです。
マクロ経済を論理的に考える
「論理的に考える」というプロセスにおいても、「マクロ的に」という視点が重要になります。典型的なのが「合成の誤謬」と呼ばれる現象です。
合成の誤謬としては、「家計全体が自分が豊かになろうとして貯蓄を増やそうとすると、消費が縮小して経済全体、即ち家計の所得が減少してしまう」という事例が有名です。
これは、ミクロ、即ち社会の一部において「正しい」理論を展開しても、部分同士の相互作用、あるいは所得の循環で成り立っている社会全体、即ちマクロのレベルでは必ずしも妥当しない、ということを意味します。
例えば「企業がコスト削減して生産性を高めれば経済の成長力が高まる」という議論も、「コスト=誰かの所得=誰かの支出の源泉」であることが忘れ去られている、という具合です。
こうした誤りに陥らないためには常に、
「誰かの所得は別の誰かの支出である」
「誰かの金融資産は別の誰かの負債である」
という、学派の壁を越えたマクロ経済上の事実(定義に基づく帰結でもありますが)をベースとする必要があります。
また、それほどの厳密性はありませんが、経験的な事実として、
「需要と供給のバランスの変化が、価格を決定する(売る人が増えれば価格が下がり、買う人が増えれば価格が上がる)」
という命題も、論理、あるいはその前提の適切さを判断する重要な基準として押さえておくべきでしょう。
私自身がこのことを意識するようになったのは、野村総合研究所のエコノミストであるリチャード・クー氏の本の中で、下記のような趣旨の記述を見つけたのがきっかけです(本のタイトルすら忘れてしまったので、原文のままではありませんが)。
「日本経済の長期低迷の原因を、お金の貸し手である銀行側の問題(不良債権を抱えたことによる貸し渋り等による資金供給力の低下)と捉えるのは正しくない。もしそうならば、貸出残高の減少と共に借り入れの価格を示す「金利」は上昇しているはずだが、実際はむしろ低下している。つまり、借り手側の需要が低下しているのが原因であって、不良債権処理や金融緩和では問題は解決しない。むしろ経済全体の需要を下支えする財政政策が重要である。」(筆者注:彼は1997~1998年や2001~2003年に見られた「短期的な貸し渋り」までは否定していませんので、念のため。これらについてはむしろ、緊縮財政や拙速な不良債権処理といった不適切な対策がもたらしたものと位置付けています)
次回以降はこうした見地を踏まえつつ、上記諸説を今一度検証してみようと思います。
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