放射能より怖い「情報汚染」

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地域社会崩壊を防げ

 もう一つ、チェルノブイリ事故で福島の参考になるのは住民の避難対策だ。早期の帰還が行われなかったためにチェルノブイリ近郊は放置され、地域社会が崩壊してしまった。

 ソ連政府の決定で、ウクライナでは事故直後に原発から三十キロ圏の住民の強制避難が行われた。旧ソ連体制では土地はほぼ国有で、政府の権限は強かった。退去命令は反発があっても素早く行われた。また、原発周囲は空き地が多く、人口がまばらだった。それでも避難はウクライナで十一万六千人になった。

 日本の福島事故でも、同じように十六万人に対して避難勧告が発令された。原子力災害の事故直後では被害の実態は不明であるために、こうした一律避難は妥当であろう。しかしその後は、汚染の状況に合わせて帰還を進めるべきなのに、日本もウクライナもそれをしなかった。荒っぽい政策を継続してしまったのだ。

 今回は訪問しなかったが、チェルノブイリ原発から西五十キロに、強制退去の住民が住む人口二万四千人のスラブチッチ市が八八年までに建設された。これは事故後、三年が経過しても、帰還をどうするか政策の方向が見えない日本と比べて、素早い対策と評価できるだろう。

 一九九一年の独立後に、ウクライナでは避難基準が作り直された。日本では「ウクライナは外部被曝年五ミリシーベルトから強制移住している」という情報が伝えられた。しかしそれは誤りのようで、土壌や食物からの被爆も勘案して避難の形が決められている。

 年間被曝で十五ミリシーベルト以上が「優先的移住」、また四十ミリシーベルトが「強制退去」となっている。

 ところが、そこで混乱が起こった。この基準を定めても、新しい場所で生活を始めた人が多かったために住民の大半は戻らなかった。また一部の住民は戻ったが、近くに家があっても、放射線量が高くて戻れなかった住民は政府に不満を抱いた。

 住める場所の線引き、住民との対話、そして除染という取り組みは手間がかかる。ソ連邦崩壊後の社会混乱のなかで、ウクライナではそうしたきめ細かな政策の採用を政府が放棄した。そして再び三十キロ圏を原則として立ち入り禁止にし、いまに至っている。

同じ轍を踏まない覚悟

 ただし高齢者を中心に、自主的に帰ってしまった人々もいる。その数はウクライナで約一千人。移住先の生活に馴染めなかった高齢の人が多い。その数は死亡や再移住で減っていまは約百人程度といい、平均寿命は八十歳を越える。総じて長命だ。

 原発から二十キロ南に離れたパルイシェフ村を訪れ、七十七歳のイワンさんという男性と話ができた。この人物は、兵役で軍にいたときに放射能防護の部隊で文書の管理をしていたために知識があった。

「この村の汚染は少なく、住んでも健康にまったく問題はない。故郷に住むのは当然のことだ」

と帰った理由を話していた。

 イワンさんの同世代の村の住人は亡くなった人が多いという。

「私は年齢によるもの以外は健康に問題ない。早死にはストレスが原因だろう。この地域を活用しないのはとてももったいない」

と感想を述べていた。

 前述のロシア政府報告書やさまざまな医学調査が示すように、ストレスが人々の健康を蝕む。それは状況によっては、放射線より危険だ。

 チェルノブイリに行って現地を見ると、福島原発事故のあとの収拾策での問題が、よく似た形で起こっていた。それは第一に、デマによる社会の混乱とさまざまなコストの増加だ。そして第二に、避難解除の遅れと地域社会の崩壊だ。「不必要な損害が増えすぎたのではないか」という印象を、現地で筆者は抱いた。

 筆者は、現状の福島原発の事故収拾策を批判している。福島の放射能汚染は限定され、普通に暮らす限りにおいて健康被害の可能性はない。それなのに現状は、一ミリシーベルトまでの除染など過剰な放射線防護対策が行われている。

 また社会不安や誤った情報で、不必要な混乱が起きている。除染は手間がかかり、復興を遅らせ、コストを増やしている。人々の暮らしを再建できるはずの福島が帰還を遠ざけたために、朽ち果てる可能性がある。

 もちろん、放射能は過剰に浴びれば危険であり、見えない脅威である以上、恐怖を抱くことは当然だ。しかし、それは現実を直視して対策を行えば乗り越えられる危険だ。それなのに合理的な対策は採用されずに、混乱と必要以上の負担を、福島の人々と日本全体が背負ってしまった。

 現実を直視し、未来を思索することから対策は始まる。チェルノブイリは福島と日本の参考になる情報の宝庫だ。私たちはチェルノブイリから学び、その失敗を繰り返してはならない。
(このツアーは作家の東浩紀さんの経営する出版社ゲンロンとHISのツアー。通訳はロシア文学者の上田洋子さんにしていただいた。関係者の尽力に感謝を申し上げる)

月刊WiLL2015年2月号この記事は月刊WiLL 2015年2月号に掲載されています。他の記事も読むにはコチラ

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西部邁

石井孝明経済、環境ジャーナリスト

投稿者プロフィール

慶應義塾大学経済学部卒業。時事通信社貴社。経済誌フィナンシャル・ジャパン副編集長を経て、フリーになる。アゴラ研究所の運営するエネルギーをめぐる政策論、分析を掲載する「GEPR」の編集を担当。

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