〔5〕臨教審の顛末
〔2〕で述べた「ゆとり教育は臨教審に始まる」というような誤解はどうして生まれたのだろうか。そしてその誤解を前にしても、しれっと黙認する元官僚氏の心中は? まるで臨教審が文部省の手柄であったみたいではないか。
臨教審の設置は当時の文部官僚にとって耐えがたい屈辱であった。戦後政治の総決算を謳っていた中曽根首相は、教育行政を文部省から政治主導に切り替えるために、昭和59年に内閣総理大臣直属の臨教審を文部省の頭越しに設置し、時代の変化に対応する教育の実現を目指した。設置前から、首相及びそのブレーンたちと文部官僚や自民党文教族議員との間で激しい攻防があった。結局同年8月の発足に至るのだが、このときのS文部事務次官が、設置を阻止できなかったことについて、M元事務次官から面罵され、厳しく叱責されたりしていた。M元事務次官は退官後も文部省に隠然たる権力を持っていた人だ。
設置後の文部省の抵抗は凄まじく、委員の人選の段階で首相の大幅な妥協を余儀なくし、第三部会を通称文部省応援団といわれる布陣にした。また、大学入試の共通一次廃止が首相の狙いであったにもかかわらず、共通一次生みの親の岡本道雄(京都大学学長・当時)が会長に選ばれたりした。首相が会長に想定していたのは財界人(中山素平)であったのだが、大学人が会長に就任したことによって、臨教審のヘゲモニー争いが文部省に有利になった。平成10年代になって中曽根元総理は「臨教審は失敗だった」と繰り返し述懐しているが、氏自身その第一の敗因にあげているのが人事の失敗である。
臨教審誕生の母体となったのは「世界を考える京都座会」(松下幸之助座長)である。その「学校教育活性化のための七つの提言」が臨教審第一部会のテーマに引き継がれた。主たる主張が学校教育の自由化だった。すなわち、学校設立の容易化と多様化、通学区域の制限の大幅緩和、学年制・教育内容・教育方法の弾力化等々の提言である。これらは、土光臨調を通じて行財政改革を推進しつつあった中曽根内閣の新自由主義路線にも通じる提言であった。
臨教審初期の段階では、この学校教育の自由化をめぐって第一部会と第三部会が激しく対立した。「自由化は命をかけても阻止する」というのが第三部会の覚悟だった。その後首相の変わり身もあり、自由化論は敗れ去った。昭和60年6月の第一次答申で「自由化」の言葉は消えて、それは代わりに「個性主義」の言葉に置き換えられた。自由化推進派は「個性主義と自由化は同じ意味だ」と豪語し、自由化反対派は「個性の尊重はもちろん大切だ」と納得していた。
以後臨教審の主導権は文部省が握り、第一部会が提起した種々の教育観は文部省によって換骨奪胎されて以降の答申へと繋がっていく。「教育を文部省から取り上げる」(後の中曽根氏の言葉)ための臨教審を、文部省が自らの手中に奪い取ったのである。
臨教審の四次にわたる答申のポイントは「個性重視の原則」「生涯学習体系への移行」「国際化・情報化への対応」「画一主義と学校中心主義からの脱却」というところだ。文部省は、昭和50年代から続けてきた「ゆとり教育」の路線にこれらの原則を取り込んで、平成の教育改革へと進んでいくことになる。
なお中曽根元総理の平成期の発言を新聞、単行本等で見ると、氏自身は「ゆとり教育」を肯定的に評価していることが分かる。昭和50年代の人心荒廃が中曽根首相の教育改革志向の動機となり、自身が青春期を過ごした旧制高校時代の自由な教育への郷愁もあり、「ゆとり」という美しい言葉に共感したものと思われる。とても昭和50年代の「ゆとり教育」の実態を知っていたとは思えない。だが、中曽根氏が「ゆとり教育」への共感を語るので、それが「ゆとり教育は臨教審に始まる」という世間の誤解の一因にもなったようだ。
付言すれば、「ゆとり教育」は3年間にわたった臨教審で論議されることはなかった。わずかに受験偏差値教育の是正の必要性が第三部会(文部省応援団)で話題になったことはあったが、それだけである。
〔6〕「新しい学力観」・「生きる力」・「確かな学力」
臨教審の答申を取り込みながら、文部省は自らの「ゆとり教育」路線を平成元年の学習指導要領改訂、さらに平成10年、11年の学習指導要領改訂に進化させ、平成14年にゆとり教育の一応の完成に至る。
平成元年の指導要領では「新しい学力観」が謳われた。「新しい学力観」とは、自ら学ぶ意欲や、思考力、判断力、表現力などを学力の基本とする学力観のことである。この「新しい学力観」が平成8年の中教審答申「生きる力」とリンクし、メディアでは「脱ゆとり」と呼ばれている現行指導要領で花開いているのである。
文部省(平成13年以降は文部科学省)が提唱する「生きる力」とは、ポイントだけをいえば、「自ら学び、考え、主体的に判断する能力」のことである。平成14年以降実施されている「総合的な学習の時間」がその具体例である。
そして平成14年に遠山敦子文科大臣が唱えた「確かな学力」が現在の文科省でよく使われる言葉になっている。「確かな学力」については本稿冒頭で触れた中教審の今回答申でもキーワードになっている語であり、本稿〔1〕でそのポイントを記しておいた。簡単にいえば、「新しい学力観」と「生きる力」を統合したような学力観である。
書いていて、うんざりしてくる。美辞麗句の羅列だからだ。文部省(文科省)語にはこのような「あるべき」論がきわめて多い。
もう、この章は短いまま閉じる。
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