理念なき国家の教育改革

〔8〕偽善的な学力観

 学校現場における学習指導の標準的な質の現実を直視しないで、文部省語の美辞麗句を制度化するとどのようなことになるか。

 学校での生徒の成績評価は、上述の「新しい学力観」のもとで行なわれる。本来成績とは知識が結果的にどの程度に修得され且つ応用力が身に着いているかを示すものである。しかし「新しい学力観」のもとでは「関心や意欲の有無、態度の可否」も評価の要素として規定される。

 態度が悪くても理科の成績が抜群なら、それはそれとして評価すべきである。態度が良くても英語が苦手で基本の修得が不十分な生徒には、それはそれとして評価すべきなのである。次は頑張ろうね、と言って。

 一人ひとりの教師が公正な評価に努力していることはよく分かるが、制度上「意欲」や「態度」が評価の要素とされてしまうと、指導‐被指導の信頼関係に支配‐被支配の関係が混入してくる。内申書が生徒支配の道具になったりするのである。

 「確かな学力」をキーワードにしている昨年12月の中教審の答申は「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」の1点刻みの評価を廃している(本稿〔1〕参照)。やはり上述の「新しい学力観」の評価法の流れである。ある大学幹部はこの「脱1点刻み」を歓迎している。曰く「これまで1点の差で不合格となった受験生の中にも、輝く人材はいたはずだ」(日経新聞平成26年12月23日)

 ほんのちょっと考えればわかることだ。選抜方法をどのように変えようとも、ぎりぎり合格したP君と僅差で不合格となったQ君は紙一重の差で必ず隣接しているのである。1点刻みをやめればQ君が救われるという問題ではない。

 1点刻みの評価をやめて段階別評価に変えたところで、1点差でランク1に届かずランク2に甘んじる受験生はいるのである。そして1点差で惜しくもランク2に入ったQ君は、同じランク内のR君に20点上回っていても、その20点は無視されるのである。

 偽善者に現実が見えないのは世の常である。

 学習内容に話を戻そう。やはり包括的に述べるよりも、具体例で説明した方が分かりやすいだろう。

 平成14年から実施された学習内容の大幅削減にともなって、小学校の算数から台形の面積の公式が削除された(現行指導要領では復活)。このときの文科省の見解は次のようなものであった。

 確かに、新しい学習指導要領では、これまで教えていた「台形の面積の公式」については扱いませんが、台形の面積を求める学習はこれまで通り行います。これは、台形の面積を求めるときに、単なる公式((上底+下底)×高さ÷2)の暗記に頼りがちであったこれまでのやり方を改め、自分の頭で考えて、高さが同じ三角形を組み合わせるなど、工夫して面積を導き出すようなやり方に変えていくことが大切だと考えているからです。
(文部科学省『新しい指導要領についてのQ&A』)

 「授業時数が少なくなってしまいました。すみません、公式はカットします」と言っているのではない。公式に頼らずに、台形が登場するつど三角形に分割してみてそれを組み合わせる方法で面積を求めるほうが、考える力を養うことになるのだと自賛しているのである。

 算数・数学の学習には抽象化のステップが至る所にあると先に述べた。そのプロセスが大切なのだ。通り一辺倒の説明で公式を与えて、さあ公式を暗記しろというのなら、それはその指導者の質が低いというだけの問題だ。公式に至るプロセスを生徒自身に経験させ、指導者はそれを誘導するのが役目だ。上記のQ&Aの言葉を借りるなら、「工夫して面積を導き出す」ことをこのプロセスでしっかり行なえばよい。そのうえで抽象化のステップが一段進むのだ。文科省の考え方では、このステップを阻止することが「自分の頭で考え」ることになるというのである。無茶苦茶である。

 私は平成21年にある塾で夏期講習のお手伝いをした。そのとき中3の成績上位者のクラスで、「文字式(乗法公式)」と「図形」をミックスした応用問題を出題してみた。小問を3問設けて誘導する形での出題である。最終問までの正答者はゼロだった。20年前の成績中位の生徒が難なく解いた問題である。正答者が出なかったのは、台形の面積の求め方を誰一人知らなかったからである。

   (余談)小学生が学ぶ円周率が「約3.14」から「約3」に変更された、
     これはけしからんと「ゆとり教育」バッシングの種にされた。
     だがこれは事実を曲げたデマだった。
     デマの発生源は某大手進学塾だったようだが、
     それを拡散したのは誰だったのだろう。

 こういうステップ阻止が何か善き事であるかのような偽善の例を、あとひとつだけ引用してみよう。
 中3で学ぶ二次方程式である。先ず私の指導法を述べよう。前にも書いたように、私の指導法はごくごく平凡な方法である。平凡だが時間をかける。

 先ずχ2=9から始める。あわせて正方形を図示する。図では正の解しか表現できないが、具象レベルでの補助である。次は (χ+1)2=25と正方形の図、そして一歩一歩順を踏みながら平方完成を要する方程式にまで辿り着く。そのうえで 3χ2+5χ+1=0 を平方完成して解き、最後にこの途中式の1行1行を参照しながら aχ2+bχ+c=0 の解き方を1行1行進めて行くのである。各段階で数問ずつ練習問題にも取り組むので、とても75分授業1コマではできない。2コマ必要である。で、ここまで苦労してやっと解の公式を獲得するのである。

 平成14年度の学習内容大幅削減に伴い、解の公式は中3の学習から削除されてしまった(現行指導要領では復活)。一歩手前の平方完成で寸止めである。だからこの年から平成21年度まで(移行措置は22年度から)の中3生は、二次方程式に出くわすと、与式をいちいち平方完成しなければならなかったのだ。それ以上に、解の公式を最後にゲットする醍醐味を知らないままに寸止めされたのである。先に引いた台形でのQ&Aになぞらえれば、文科省は、公式に頼らず自分の頭で考えて解くことが大切なのだと言うのだろう、きっと。

 解の公式を獲得するまでのプロセスで、生徒たちは充分自分の頭で考えているのである。3χ2+5χ+1=0 から aχ2+bχ+c=0 に至る最後のステップがきつい。そのきつさを乗り越えたあとの生徒たちの喜びを、文科省は知らないのか。そんなことも知らずに、何が「自分で考える大切さ」だ。何が「アクティヴラーニング」だ。何が「生きる力」だ。

 「ゆとり教育」への世論の批判の高まりを受けて、現行指導要領が小学校では平成23年度から、中学校では24年度から、高校では25年度からそれぞれ実施されている(移行措置はその前々年から)。授業時数も増えたが、それは文科省の言い訳的建前論では「基本の反復練習や、知識の活用(実験、観察等)を充実」させるためであり、「ゆとり教育」を推進してきた学力観には変更を加えていない。

 学校の任務は学習指導につきる。部活指導や生活指導は学校教師の任務ではない。臨教審の答申を取り入れて、学校中心主義からの脱却を文科省も方針のひとつとしているのだから、スポーツや文化活動は、生徒の希望に応じて、地域の民間教育活動に委ねればよいのである。地域の多様な教育力を育めばよいではないか。また、生活指導も家庭と地域の責任である。

 学校は学習指導に徹すべきである。私がここまで縷々述べてきた「ごくごく平凡な指導法」は誰にでもできることである。ただ、しないだけである。学校が真の学習の場として機能すれば、教師にとっても働き甲斐のある仕事場になるだろうと思う。生徒にとっても時間的に苛酷なダブルスクールは徐々に解消されよう。

 文科省が「新しい学力観」・「生きる力」・「確かな学力」で羅列している美辞麗句も、それが肉付けされれば良い方向に向かうものも少なくない。これらにも臨教審が提唱した「個性重視の原則」「生涯学習体系への移行」からの影響が認められる。ただ、学力観では、何が基本かということを間違ってはいけない。台形の面積の公式や二次方程式の解の公式を(復活したとはいえ)一時は追放したことを、「自分の頭で考える力を大切にするためだ」などと言うのは、学習指導の基本を本質的に間違っているからである。

 教科の壁をなくして「総合的な学習」を目指すのも、場合によっては必要なことだろう。物理と数学など相互に関連付ければよいのだ。ただし先ず基本の修得があったうえでのことである。

 どうも文科省の発想は、地道な基本の積み重ねから「生きる力」等の学力観を展望するのではなく、「あるべき」論から降りてきているように思えてならない。

〔9〕画一教育の克服へ

 明治5年の学制公布から始まる日本の学校教育は、人々を近代国家の国民として動員あるいは統合するための装置だった。昭和20年の敗戦後には占領下での教育改革を経て、やがて経済成長下での良質な労働力を大量に供給するために学校教育は社会的役割を果たしてきた。

 日本の高度経済成長時代は、企業の終身雇用制度が堅持されていた。終身雇用制度下での日本人の集団帰属意識は、その集団に入るための学歴を偏重する風潮を生み出した。学歴とは、学習歴ではなく、学校歴の意味であった。どのランクの学校を卒業してきたのかということを尺度として、企業はその人物の教育訓練可能性(トレイナビリティ)を判断した。終身雇用制度や年功序列制度、あるいは行政の企業に対する護送船団方式に見られる大人の競争回避の志向は、子供時代の競争つまり受験戦争へ皺寄せされることになったのである。

 このような大量画一教育を必要とした時代は既に過去のものとなった。教育の自由化はともかくとして、時代の変化に対応しようとした臨教審第一部会の問題意識は正しいと思う。臨教審第一部会と文部省とのバトルは基本的に後者の勝利に終わったものの、第一部会の主張の趣旨は、部分的であれ、臨教審全体の答申に取り入れられている。

 画一主義からの脱却と個性の尊重などの理念は、学校制度の進路の多様化という方向で具体化すべきことである。

 6・3・3の単線型教育制度は、先進国に追い着き・追い越せと工業化の進展に邁進する時代にあっては、日本を経済大国に成長させる人的要因となった。そして経済的豊かさの増大が進学率を押し上げ、高校進学率を見ると、昭和41年72%、45年82%で、現在は97%を超えている。反面、高校での学習内容が理解できない生徒が半数を超えているといわれている状態だ。中学での学習内容をほとんど理解できなかったP君が、「とにかく高校ぐらいは行っておかなければ(そうしないと将来いろいろな不利があるから)」ということで、この単線コースを半ば社会的に強制されているのは、P君にとって不幸なことだろう。適正に応じた様々な進路が用意されるべきだし、単線コース制を支えた大人たち(親など)の画一志向も克服されなければならない。

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西部邁

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