〔7〕学習指導の質
さて、「新しい学力観」でも「確かな学力」でも何でもいいが、学習指導の現場の質はどのようなものか。包括的な記述は避け、具体例を示してみよう。
小学校の算数で、「速さ」「時間」「道のり」の関係を学ぶ(以前は5年生・現行6年生)。中1で文字式を学ぶときにもこの「速さ」の問題が登場するが、中1で塾へ入って来る生徒たちの多くはここで悩ましくなる。机間を歩いて生徒たちのノートを覗くと、次のような図を描いている。
速さを求めたいときには、ハの上に指を置いて隠すとキ/ジが残る。つまり速さは時間分の距離。時間を求めるときは、ジを隠すとキ/ハ、つまり時間は速さ分の距離、距離を求めるときは、キを隠すとハとジが横に並んで残る。つまり距離は速さ×時間というわけだ。
この図に頼っている生徒に「時速v㎞でm分進んだときの距離を表しなさい」と問うと、たちまち混乱する。意味が解ってないのである。
生徒たちがこんな図に頼っていると私が初めて気づいたのは、昭和54年度の中1の授業中だった。私が「こんなやり方はよくない」と言うと、生徒たちは「学校ではこれで教わっている」と言うので、困ったものだ。
私は生徒たちに「速さの公式忘れた? うん、別にかまわない。この公式は暗記していなくても心配いらないんだよ」と言って、次の図を板書する。
「この教室から郵便局までだいたい500m。急いで速足で歩くと1分で100mぐらい進める。1分あたり100m、これを分速100mというんだよ。じゃあ郵便局まで何分かかるか、それが解らない人はこのなかにいないよね。今自分が急いで郵便局まで行くつもりになってごらん。そう、5分だね。ジカンハハヤサブンノキョリとか丸暗記している必要はないの。忘れたら、いつでも今やったような簡単な数を例にして、500/100=5 で式の仕組みを思い出せばいいのだよ。じゃあ、今そのテキストの問題で文字式も作れるね」
中1の生徒が文字式を作る場合にでも、具体的なイメージから文字式へ抽象化していくという作業、抽象するという生徒自身の作業の途中経過が学力を養っていくのだ。郵便局の例でイメージを与えるのは、具象自体に目的があるからではない。抽象の次元へ生徒自身が離陸するエネルギーを補給するためだ。小中学生の算数・数学の学習には、この抽象化へのステップが学年に応じて至る所にある。それが算数・数学の学習のきもだと教師が分かっているならば、絶対に「ハジキの図」を与えたりしないはずだ。
私が「ハジキの図」を初めて知ったのは昭和54年だったが、その後今に至るまで定着してしまっている。調べてみると、またたく間に日本全国に広がったようだ。
なかには立派な教師もいるという問題ではない。もちろん素晴らしい先生もおられるし、けっして少なくもないだろう。私が言いたいのは、「ハジキの図」が全国に普及してしまうような、標準的な現場での学習指導の質ということだ。
これはささやかな一例である。学習指導の質ということを包括的に記述するよりも、具体例を提示した方が伝わりやすいと考えた次第だ。類似の例は枚挙に暇がない。
「速さ」の問題にも関係するが、掛け算と割り算の意味を真に理解しないまま中学に上がってくる生徒が大変多い。
例えば「水槽に水が30ℓ入っている。これは水槽の容積の20%にあたるという。水槽の容積を求めなさい」という小5レベルの問題を中学生に出題すると、成績中位以上の生徒を含めて、「30×0.2=6 答え6ℓ。先生、できました!」という生徒がたくさんいる。ただ目についた数を掛けてみたというだけである。短い文章が読解できていない。だから「30ℓの水が入っている水槽の容積が6ℓだと? あれ、おかしいぞ」とすら思わないのである。
私の経営していた塾では、小学生の頃から指導していた生徒と、中学生になってから入塾してくる生徒との大きな違いは、掛け算・割り算の意味を真に理解しているか否かという点にあった。
私の指導法はごくごく平凡なものであった。ナントカ方式だのカントカメソッドなどというものは知らない。ただ各学年それぞれのステップで生徒が新しく学ぶ事項を生徒の目で眺め、生徒の新鮮な驚きや戸惑いに想像力を働かせ、「なぜなのか」という問題意識を常に生徒に持たせて誘導してきたにすぎない。私はそんな指導法を誰に教わったわけでもない。ただ自分の引き受けた仕事だから謙虚に精進しただけである。
それで生徒たちの学習成績は飛躍的に伸びたのである。塾の中学生クラスは75分授業で、15分の休憩をおいて1日2コマの長丁場だ。授業が活性化すれば、終了時刻が近づくと生徒たちは「えっ、もうこんな時間? もっとやりたい」と言うのである。中1当時数学が苦手で大嫌いだった生徒が、「僕は将来数学の教師になりたい」と感想を書き残して卒業していくのである。「わたしは○○○(塾の名)のおかげで英語が好きになりました」と書き残して卒業していくのである。
なぜ本来は学習の場である学校にその程度のことができないのか。
学校の現場での標準的な学習指導の質がその程度のものでさえあったなら、私が経営していた塾には存在理由がなかったはずだ。進学塾ならいざ知らず、私の経営していたような種類の塾は、学校が真に学習の場として機能していたならば不要であったろうし、生徒の体の成長のためにもダブルスクールは不健全であったと思う。
次に記すのは、内閣府の調査「学校制度に関する保護者アンケート」(平成17年9月実施10月発表、有効回答者1270人)の結果の一部である。
学力向上で、塾・予備校の方が学校より優れている 70.1%
学校の方が優れている 4.3%
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