近代を超克する(4)「近代の超克」論文を検討する[後編]

「近代の超克」特集ページ

 前回および前々回に引き続き、座談会「近代の超克」参加メンバーの論文を検討していきます。

三好達治『略記』

 三好の論文には、次のような文章があります。

 日本精神は、日本国の歴史、日本国民の生命と共に、実は過去に発足して、現在も刻々に自らを実現し、明日にむかつてなほ日々に成長発展しつつ、遠い将来の前方に於て、その未来の理想形態が予想される――わづかに想定されるところのものでなければならない。

 三好は論文内で科学の蔑視を戒めており、この見解には当然ながら一理も二理もあります。ただし、「自らを実現」や「成長発展」や「未来の理想形態」などの言葉に対して、進歩主義という思想が潜んでいないか注意が必要だとも言えるでしょう。進歩主義は、科学への無批判的な心酔と親和性が高いものだからです。
 理想とは、過去および過去の組み合わせによって導かれるものです。まだ未だ来ていない状態に対し、それが良い状態だとどうやって判断できるというのでしょうか。日々に成長発展すると言えるためには、時代が進めば(多少の変動はあるにしても)必然的に世の中は良くなるという想定が必要なのです。それが、進歩主義というおかしな思想の正体なのです。
 西欧では、キリスト教の影響で進歩主義的な思考が幅広くみられます。一方、日本では明治維新により西欧思想の流入が起こり、それによって進歩主義的な考えがはびこるようになりました。例えば、福澤諭吉(1835~1901)は日本最初期の進歩思想家の一人だと見なすことができます。
 日本における「近代の超克」では、この進歩思想を退けることも極めて重要になります。

菊池正士『科学の超克について』

 菊池の論文では、物理学者という立場から、「科学」を考察しながら「近代の超克」について論じられています。例えば、科学的方法を批判することは哲学の仕事ですが、科学の専門家としても反省すべき問題だと語られています。これは誠実な態度です。
 神の問題については、実在かどうかという議論にあるのではなく、神秘的な飛躍的な道だとされています。この見解は素晴らしいものですし、同意できない人にとっても考えてみるべき視点だと思われます。
 菊池は科学という方法を良く理解しているため、「近代の超克」という科学的には答えが出ない問題に対し、科学的ではない東洋の大乗仏教的な考え方を提示しています。西欧的な「我」の自覚ではなく、東洋における「我の滅却」を考えてみるべきだというのです。それは利己心を抑えるとか、個人主義的な考えを改めるといった次元ではなく、ものの見方を根底からひっくり返すことだというのです。
 この提案には深いものがあります。西田幾多郎の「無」の哲学に通じるものがありそうです。少しばかり掘り下げておくと、「我の滅却」は「我」をある意味において前提としているわけです。それゆえ「我の滅却」を考えておくということは、「我」を中心とした世界観および「我の滅却」による世界観の両視点を持つことになるのです。
 そのため、両視点を持つ自分と、「我」を中心とした世界観に拘泥する自分という二人の自分を想定してみることが可能になるのです。異なる自分を自分で比較をしてみることは、思想的にも深い試みとなるでしょう。

中村光夫『「近代」への疑惑』

 中村の論文には、ヨーロッパの近代は国産品であり、日本の近代は輸入品であるため、それぞれの近代は性格を異にするという考えがあります。日本における近代の問題は、輸入文化の問題を離れてはありえないというのです。
 その上で中村は、日本人が「西洋」にうちに「近代」しか見なかったことを問題視します。近代性はヨーロッパ文化の大きな特色ですが、文化の一様相であって全てではないというのです。日本が長い歴史を持つように、ヨーロッパの諸国もそうだというわけです。
 西洋の特殊な影響による混乱が、日本側の受け入れ方にあるのだとすれば、それを排斥しても救われないということになります。明治の文明開化政策に日本近代の悲しい正体があり、それによる精神の危機こそが闘うべき身内の敵であるということ、この自覚がまずは必要だというのです。そのためには、西欧をその長い歴史に基づいて理解することが必要になります。
 これは確かに傾聴に値します。近代以前の西欧の知的遺産は、日本人にとっても大いに役立つからです。西欧の歴史に基づいて西欧を理解し、その理解によって「近代の超克」という問題に取り組むこと。これは確かに、日本が文化の成熟を目指すときに取りうる一つの方法だと思われます。

河上徹太郎『「近代の超克」結語』

 河上の論文では、「近代の超克」座談会について、次のような感想が述べられています。

 此の会議が成功であつたか否か、私にはまだよく分らない。たゞこれが開戦一年の間の知的戦慄のうちに作られたものであることは、覆ふべくもない事実である。確かに我々知識人は、従来とても我々の知的活動の真の原動力として働いてゐた日本人の血と、それを今まで不様に体系づけてゐた西欧知性の相剋のために、個人的にも割り切れないでゐる。会議全体を支配する異様な混沌や決裂はそのためである。さういふ血みどろな戦ひの忠実な記録であるといふことも、識者は認めて下さるであらう。しかも戦ひはなほ継続中である。確かな戦果は、戦塵が全く拭ひ去られた後でなければ分らぬであらう。

 ここには、まじめに考えられたまじめな文章が記されています。
 大東亜戦争の開戦一年目という時代状況において、この「近代の超克」という試みには参照すべき点が多々含まれており、私は敬意を表さずにはいられません。それゆえ問題は、戦塵が拭い去れらた後、つまり戦後世代が「近代の超克」を引き継いで論じておかなければならなかったのに、その営みがほとんど省みられなかったことにありそうなのです。
 河村は、我々は「如何に」現代の日本人であるかが語りたかったと述べた上で、「近代の超克」という仕事にこれだけ未知の人たちが集まったことに、日本の国のありがたさがあると語っています。
 こういった「近代の超克」という過去の偉大な遺産がありながら、戦後の日本人はこの問題についてほとんど考えてこなかったように思えます。それどころか、負けたとたんに自由主義は素晴らしいとか民主主義万歳とか言いはじめたのです。このような思想のふしだらさに嫌気がさす者は、「近代の超克」という問題を受け継ぎ、それに取り組むという方法が残されているのです。


※第5回「近代を超克する(5)「近代の超克」座談会を検討する」はコチラ
※本連載の一覧はコチラをご覧ください。

西部邁

木下元文

木下元文

投稿者プロフィール

1981年生。会社員。
立命館大学 情報システム学専攻(修士課程)卒業。
日本思想とか哲学とか好きです。ジャンルを問わず論じていきます。
ウェブサイト「日本式論(http://nihonshiki.sakura.ne.jp/)」を運営中です。

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