『日本式正道論』第五章 武士道

第十三節 幕末の志士

 幕末という激動の時代においても、幕末の志士たちは武士道を論じています。

第一項 横井小楠

 横井小楠(1809~1869)は江戸末期の熊本藩士です。
 『国是三論』には、〈元来武は士道の本体なれば、已に克く其武士たるを知れば、武士道をしらずしてはあるまじきを知り、其武士道を知らんと欲すれば、綱常に本付き、上は君父に事ふるより下は朋友に交るに至り、家を斉へ国を治るの道を講究せざる事を得ず〉とあります。武士ならば武士道を知るべきであり、武士道においては人との交わりを通じて、家を整え国を治める道を求めるべきことが語られています。

第二項 佐久間象山

 佐久間象山(1811~1864)は江戸末期の学者です。初め朱子学を、後に蘭学を修め、西欧の科学技術の摂取による国力の充実を主張しました。
 『省諐録(せいけんろく)』には、〈行ふところの道は、もつて自から安んずべし。得るところの事は、もつて自から楽しむべし。罪の有無は我にあるのみ。外より至るものは、あに憂戚するに足らんや〉とあります。憂戚とは、うれえいたむことです。行くところの道は、自分が安らかになるべきであり、得られるところで自分が楽しむべきだとされています。罪は自身の内にあるのであって、外から来るものは気にするに及ばないのだと考えられています。また、〈ああ、人情に通じて人を服せしむるものは、自からその道のあるあり〉とあります。人情に通じて人を感服させられるなら、自(おの)ずから道があるというのです。

第三項 勝海舟

 勝海舟(1823~1899)は、幕末・明治の政治家です。蘭学・兵学を学び、幕府使節とともに咸臨丸にて渡米しています。幕府海軍育成に尽力しました。また幕府側代表として西郷隆盛と会見し、江戸城の無血開城を実現しました。
 『氷川清話』には、〈おれは常に世の中には道といふものがあると思つて、楽しんで居た〉とあります。また、〈主義といひ、道といひて、必ずこれのみと断定するのは、おれは昔から好まない。単に道といつても、道には大小厚薄濃淡の差がある。しかるにその一を揚げて他を排斥するのは、おれの取らないところだ〉とあります。それは、〈もしわが守るところが大道であるなら、他の小道は小道として放つておけばよいではないか。智慧の研究は、棺の蓋をするときに終るのだ。かういふ考へを始終持つてゐると実に面白いヨ〉という考え方によります。〈男児世に処する、たゞ誠意正心をもつて現在に応ずるだけの事さ。あてにもならない後世の歴史が、狂といはうが、賊といはうが、そんな事は構ふものか。要するに、処世の秘訣は誠の一字だ〉というわけです。

第四項 西郷隆盛

 西郷隆盛(1828~1877)は、薩摩出身の武士です。通称は吉之助で、号は南洲です。討幕の指導者として薩長同盟・戊辰戦争を遂行し、維新三傑の一人と称されました。征韓論に関する政変で下野し、西南戦争に敗れ、城山で自死し生涯を終えます。
 『南洲翁遺訓』には、〈廟堂に立ちて大政を為すは天道を行うものなれば、些とも私を挟みては済まぬもの也。いかにも心を公平に操り、正道を踏み、広く賢人を撰挙し、能く其の職に任うる人を挙げて政柄を執らしむるは即ち天意なり〉とあります。祖先を祭るという場所に立って政治を行うことは、天道に適うことであるので私心を挟んではならないと語られています。公平に正道を歩み、賢人を採用し職に合う人を選んで政治を行うことは、天意なのだと考えられています。そこで、〈事大小となく、正道を踏み至誠を推し、一事の詐謀を用うべからず〉とあり、事態の大小に関わらず、正道を歩み、誠を尽くすことが大事であり、はかりごとを用いてはならないのだと語られています。
 西郷隆盛は、道は国家を超えた共通性を持つと同時に、国家の威信に関わるものと考えています。例えば、〈忠孝仁愛教化の道は、政事の大本にして、万世に亘り、宇宙に弥り、易うべからざるの要道なり。道は天地自然のものなれば、西洋と雖も決して別なし〉とあります。道は天地自然であり、すべてに関わるとされています。その神髄は〈文明とは道の普く行わるるを賛称せる言にして、宮室の荘厳・衣服の美麗・外観の浮華を言うにはあらず〉と語られています。文明とは道が行われていることの尊称であり、豪華な外見などではないということです。そこで〈節義廉恥を失いて国を維持するの道決してあらず、西洋各国同然なり〉と言い、道の国家を超えた共通性が述べられているのです。国家の威信については、〈正道を踏み国を以て斃るるの精神無くば、外国交際は全かるべからず、彼の強大に畏縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に従順するときは、軽侮を招き、好親却って破れ、終に彼の制を受くるに至らん〉と語られています。国が倒れようとも正道を行くという覚悟が必要なことが説かれています。〈国の凌辱せらるるに当りては、縦令国を以て斃るるとも正道を践み、義を尽すは政府の本務なり〉とも語られています。政府は、国が侮辱されたならば、国が倒れようとも正道を行き義を尽くすのが本務なのだというのです。
 また、西郷隆盛と言えば敬天愛人が有名です。〈道は天地自然の道なるがゆえ、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに、克己を以て終始せよ〉と語られています。〈道は天地自然のものにして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給う故、我を愛する心を以て人を愛するなり〉というわけです。
 道とは、〈道を行うには尊卑貴賤の差別なし〉とあるように、誰もが道を行いえるとされています。〈道を行うものは、固より困厄に逢うものなれば、如何なる艱難の地に立つとも、事の成否身の死生などに、少しも関係せぬものなり。事には上手下手あり、物には出来る人・出来ざる人あるより、自然心を動かす人もあれども、人は道を行うものゆえ、道を踏むには上手下手もなく、出来ざる人もなし。故に只管、道を行い道を楽しみ、若し艱難に逢うてこれを凌がんとならば、弥々道を行い道を楽しむべし〉とあります。道を行うということに、生きるか死ぬかは関係ないと考えられています。道を行うには才能も関係なく、道を行うことを楽しみ、困難に打ち勝とうとすればよいというのです。そこにおいて、ますます道を行うことを楽しむべきことが語られています。
 これらを踏まえ、〈命もいらず、名もいらず官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。此の始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり〉と語られています。

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