『日本式正道論』第五章 武士道
- 2016/11/16
- 思想, 文化, 歴史
- seidou
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第四節 家訓
武士道に連なる道は、武家の家訓においても見ることができます。
第一項 北条早雲
北条早雲(1432~1519)は室町後期の武将です。
『早雲寺殿廿一箇条』は、早雲が定めたと伝えられています。この家訓に、〈文武弓馬の道は常なり。記すに及ばず〉とあります。「弓馬の道」は当たり前のことであり、記すまでもないと語られています。
第二項 黒田長政
黒田長政(1568~1623)は、安土桃山から江戸初期の武将です。
『黒田長政遺言』には、〈殊ヲ文武ノ道ヲワキマヘ、身ヲ立テ名ヲ上ント思フ程ノ士ハ、主君ヲ撰ビ仕ル者ナレバ、招カズシテ馳集ルベキ事勿論ナリ〉とあります。身を立て名を上げたいと思う武士は、主君を選ぶために招かれなくても馳せ参じるのだと語られています。戦国時代の主従関係を念頭においたもので、後代になると家訓にこれに類する文章は見られなくなります。
第三項 本多忠勝
本多忠勝(1548~1610)は、江戸初期の大名です。通称は平八郎です。
『本多平八郎書』では、〈武士たるものは道にうとくしてはならず、道義を第一心懸べし。又、道に志し賢人の位にても、武芸を知らねば軍役立ず〉とあります。武士の道では道義が第一であるとともに、武芸も大事だと述べられています。
第五節 甲陽軍鑑
『甲陽軍鑑』は、全20巻59品から成ります。内容は、甲州武田武士の事績や心構えや武将の条件などが記されています。戦国乱世に形成された武士の思想が集大成されています。武田家は1582年(天正10年)に滅亡しています。
『甲陽軍鑑』の「甲」は、甲斐を意味します。「陽」は、万物が豊かに成長し、稔る意のことばで、「甲」を修飾しています。「軍鑑」は、戦いの歴史物語の意です。「鑑」には、歴史物語が世俗世界を映し出す鏡であり、後代のひとびとにとっての戒めであることが含意されています。
『甲陽軍鑑』の〔品第六〕では、〈若しこの反古落ち散り、他国のひとの見給ひて、我家の仏尊しと存ずるやうに書くならば、武士の道にてさらにあるまじ。弓矢の儀は、たゞ敵・味方ともにかざりなく、ありやうに申し置くこそ武道なれ〉とあります。もしこの『甲陽軍鑑』が散らばって他国の人が読むとき、自分の領国の武将を贔屓目に書いていたのでは、それは「武士の道」ではないというのです。合戦では、敵味方を問わずに、ありのままに述べ伝えるのが「武道」だとされているのです。
〔品第十三〕では、〈またよきひとは、各々ひとつ道理に参るにつき一段仲よきものにて候ぞ〉とあり、優れた武士はそれぞれ同一の道理に従うから、一段と仲がよいものだと語られています。
〔品第十六〕では、〈其故は法をおもんじ奉り何事も無事にとばかりならば、諸侍男道のきつかけをはづし、みな不足を堪忍仕る臆病者になり候はん〉とあります。たとえ掟であっても、不足なことでも堪忍するのは「男道」のきっかけを外すものとされています。〈男道を、失ひ給はんこと、勿体なき義也〉ということから、〈某子どもに男道のきつかけをはづしても、堪忍いたせとあることは、聊も申し付けまじ〉と語られています。
〔品第四七〕では、〈是は只の事にあらず侍道の事なれば、目安をもって信玄公の御さばきに仕られ〉とあり、ただ事ならざるものとしての「侍道」が語られています。
第六節 兵法家伝書
柳生宗矩(1571~1646)は、江戸初期の剣術家です。徳川家康に仕え、徳川秀忠に新陰流を伝授しました。
『兵法家伝書』では、〈道ある人は、本心にもとづきて妄心をうすくする故に尊し。無道の人は、本心かくれ妄心さかんなる故に、曲事のみにして、まがり濁たる名を取也〉とあります。道ある人とは、物事の道理をよくわきまえた人で、無道の人とは、道理をわきまえず、道理に反する人のことだと語られています。
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