『日本式正道論』第五章 武士道

第九節 士道

 士道とは、為政者としての武士が守り行うべき規範のことです。武士道と比較すると、儒教からの影響が色濃く反映されています。

第一項 中江藤樹

 中江藤樹(1608~1648)は『翁問答』で、〈主君をかへたるを必ただしき士道と定めたるも、また主君をあまたかゆるを正しき士道とさだむるも、皆跡に泥みたる僻事也。心いさぎよく義理にかなひぬれば、二君につかへざるも、また主君をかえてつかふるも皆正しき士道也。そのをこなふ事はともあれかくもあれ、只その心いさぎよく義理にかなふを、ただしき士道也と得心あるべし〉と述べています。主君を変えることを正しい士道と定めることも、主君を変えないことを正しい士道と定めることも間違っていると藤樹は言います。心が潔く義理に適えば、二君に仕えても主君を変えても正しい士道なのだとされています。心が大事なのであり、行うところが義理に適っていれば良いのだと考えられています。

第二項 池田光政

 池田光政(1609~1682)は、備前岡山藩主です。儒教を重んじ、新田開発・殖産興業に努めました。
 『池田光政日記』では、〈義を見て利を見ざる者は士の道なり〉とあります。士道では、利よりも義が大切だと語られています。

第三項 山鹿素行

 山鹿素行(1622~1685)の説を門人たちが収録した書に『山鹿語類』があります。『山鹿語類』は1665年(寛文6年)に完成しています。泰平の世の武士のあるべき姿を、儒教道徳の面から「士道」として提唱しています。
 士道は、『山鹿語類』の[巻二十一・士道]で語られています。例えば、〈凡そ士の職と云は、其身を顧み、主人を得て奉公の忠を盡し、朋輩に交て信を厚くし、身の濁りを愼で義を専とするにあり〉とあります。士の職分とは、自らを顧みて奉公に励み、友と厚く交わり、身を慎んで義につとめることだとされています。そこで、〈文道心にたり武備外に調て、三民自ら是を師とし是を貴んで、其教にしたがひ其本末をしるにたれり〉とあり、文が内心に充実し武が外形に備われば、三民(農工商)は士を師として貴び、その教えにしたがい物事の順序を知ることができるのだと語られています。〈人既に我職分を究明するに及んでは、其職分をつとむるに道なくんばあるべからざれば、こゝに於て道といふものに志出來るべき事也〉とあり、人が自分の職分を明らかにした段階において、その職分をつとめるためには道がなければならないので、ここで、道というものに対する志が出てくるのだと語られています。
 道の志が出た場合は、〈外を尋ね学ぶと云ども、外に聖人の師なくんば、自立皈て内に省みべし、内に省ると云は、聖人の道聊しいて致す処なく、唯天徳の自然にまかせて至る教のみなれば、我に志の立処あらんには、事は習知て至るべく、其本意は推して自得するに在べき也〉とあります。道は外に師を求めて学ぶべきなのですが、聖人の道へと導いてくれるよき師がいないというなら、自らに立ち返って内面を顧みるべきだと述べられています。聖人の道というものは、強制してするというところは少しもなく、ただ天の徳にまかせて自(おの)ずから至る教えなのですから、自分が志を立てた以上は礼などの外形的なことは習うことによって身につけられるし、その本意はそこから推しすすめることで自得することができるとされています。そこで、〈〈我説く所の理更に遠からず離れるべからず、人々皆日用之間によって、而其心に快きを号して道と云、其内にやましきを人欲と云、唯此両般のみ也、日用の事豈に忽せにすべき乎〉と語られています。素行のいうところの理とは、特別に深遠なものではなく、身近なものであり、また、その人によるというものでもないのです。人はみなその日常において自分の心にこころよく感ずるものを道といい、心にやましく感ずるものを人欲とよんでいるというのです。要はただこの二つだけなのであり、日常の事をおろそかにしてはいけないのだと語られているのです。

第四項 荻生徂徠

 荻生徂徠(1666~1728)は『答問書』で、〈世上に武士道と申習し申候一筋、古之書に之有り候君子の道にもかなひ、人を治むる道にも成ると申すべき哉之由御尋候〉と述べています。武士道は、儒教における君子の道に適うというのです。

第五項 林鳳岡

 林鳳岡(1644~1732)は江戸中期の儒学者です。
 『復讐論』には、〈生を偸(ぬす)み恥を忍ぶは、士の道に非ざるなり〉とあります。士道は、死を覚悟し恥を雪(すす)ぐものだと語られています。

第六項 五井蘭洲

 五井蘭洲(1697~1762)は江戸中期の儒者です。
 『駁太宰純赤穂四十六士論』には、〈義なる者は、天下の同じうする所にして、その為す所や義に当らば、何ぞおのづから一道ありと為さん。苟くも義に当らずんば、則ちまた以て道と為すに足らず。これみな武人俗吏の談にして、士君子の辞に非ず〉とあります。武人の道には、義がなければならないと語られています。

第七項 村田清風

 村田清風(1783~1855)は、日本の武士で長州藩士です。藩主・毛利敬親の下、天保の改革に取り組みました。
 『海防糸口』には、〈夫生する者は死するは常なり、唯死を善道に守るべし〉とあります。生きとし生けるものは、すべて死を迎えます。その覚悟の上で、死において善なる道を守るというのです。また、〈道は太極の如し。二つに割れば文武と成、或は忠孝となる。陰陽両儀の如し〉ともあります。道は、文武・忠孝・陰陽というように両義的なものとして考えられています。

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西部邁

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