プログラミング必修化が招く日本の地盤沈下
- 2016/6/6
- 社会
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プログラミングの宿命的構造
プログラミングの必修化は、文科省の失敗の歴史を加筆すると予言できます。なぜなら、プログラミングの授業時間を確保するために、別の教科を削減しなければならないからです。正答率3割とは、7割の中高生の読解力に問題があるという状況下で、国語が削除されるなら論外ですし、その他の教科についても同じです。それは、プログラミングがプログラマーの知識の枠内を越えることが出来ない、宿命的構造を持つからです。
中高生が3割しか答えられなかった問題文を、プログラム風に翻案すると以下になります。
if ( アミラーゼで分解できる ){ デンプンである }
else{ セルロース、あるいはデンプン以外 }
※「if」は「もしも」で、括弧内にある条件を満たしていれば、それ以下の処理を実行し、「else」は「それ以外」。この表記は多くのプログラミング言語で用いられている条件分岐の文法
問題文では、条件を提示してから結論へ至りますが、結論を踏まえて条件を用意するのがプログラミング。つまりプログラミングとは、プログラマーの知識や発想、論理力の枠内に限定される宿命を抱えているのです。プログラマーが平方根や三角関数を理解していなければ、それを使うことはできず、「アミラーゼはデンプンを分解できる」という知識がなければセルロースとの区別するプログラムは作れません。だから、予言するのです。失敗すると。
児童にショベルカーは不要
コンピュータやプログラムの仕組みを教えることに反対しているのではありません。先の「情報」の授業を拡大するなり、「生活」のカリキュラムにITトリビアを追加するならむしろ賛成します。また、希望者がプログラミングを学べる仕組みなら大歓迎です。読売新聞は必修化の課題として「教師がいかに知識や技術を習得するか。必修化に向けた日本の最大の課題だろう」と心配してみせますが、この発想が時代遅れ。オンラインで繋がった「クラブ活動」なら、それぞれの学校にエキスパートは不要です。
しかし、家庭科の調理実習で鱧の骨切りや、技術の時間にショベルカーの操作を教える必要がないように、プログラミングという「特殊技術」を、望んでもいない児童生徒へ強制する必修化に反対しているのです。
未来志向の落とし穴
プログラミング教育推奨派が、論拠とするのは「これからの時代」というもの。これは漠然とした精神論。コマンド入力がマウス操作となり、ブラインドタッチはフリック入力から、音声認識へと変化するように、より便利・簡単へと、メーカーは日夜開発を続けており、より高度化しつづける「特殊技能」のプログラミングが、小学生の「授業」で身につくわけがありません。一方で、プログラミングを支える基礎知識を身につけるためのその他の授業が削られ、作文嫌いの大人と同じく、プログラム嫌いの未来の大人を作り出す、虻蜂取らずの亡国政策です。
ある大学准教授は、ご令息をプログラミング教室に通わせた感想をブログでこう述べています。
“ブランドタッチもままならない小学生が、半年間でどのくらいのガジェットになってくれるのか楽しみですな”
ガジェットとは気の利いた小物という意味で、電子機器やスマホなど、Webの世界ではブログパーツなどがこれにあたります。我が子をガジェット扱いするような人間が大学の准教授。これも教育行政の失敗でしょう。我が子をブログパーツ扱いする感性とボキャブラリーしか持たない親に育てられた子供は、長じてその親を「レガシー(古い)ガジェットは使えねー」と小馬鹿にしそうで、身を閉じて浮かぶ未来に涙が禁じ得ません。
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