フラッシュバック 90s【Report.30】規制緩和の代償・自己責任論~失われていく慣習~

自由になって落ち込んだ需要・デフレへ突入

少し、経済学の話をしましょう。

西洋における経済学では、需給曲線というものが出てきます。横軸に需要あるいは供給されている数量、縦軸はそのものの価格が取られています。そして、この需給曲線が交差するところが均衡点であり、適正価格ということになります。

官僚の試験などを受けようと思うと、もっと細かい数式などがあるのですが、ここでは触れません。

さて、需要と供給といっても、天から数字が落ちてくるのではなく、それぞれ人間の経済活動に結びついています。

まず、需要は何かといえば、人間が生活していく中で必要なモノ、サービス、端的に言えば、三大欲を含めた欲望です。それに対して、供給というのは産業によっても違いますが、戦後日本は製造業を中心に発達しましたから、機械設備が供給を司っています。

皮肉な話ですが、経済活動を自由化してしまったがゆえに、人々の財布はより硬くなり、需要は低迷します。需要が低迷すれば、均衡点の価格はドンドン下がり、デフレへとなってしまうのです。

思えば、100円均一なるショップが生まれたのも、90年代後半以降でした。田だ単に、時代が変わったわけではなく、そもそも「人間の欲望は無限ではなく有限である」という命題に立ち向かうことをサボってきたツケが回っているのです。

社会的基盤を再整備できるのか?

「自己責任」の最高の対策は、「何もしない」ということです。何もしていない人間に、基本的には責任を問うことはできません。

英語で、責任は「responsibility」であり、語源は反応とか応答を意味します。つまり、何からの行動や言葉を発した結果、反応的に発生するのが責任であるわけです。もちろん、「何もしない」という選択を取ったことによる責任も発生するのですが、それは非常に見えづらい、invisibleなわけです。

また、「自己責任」がかかるからこそ、成果や結果が換算して目に見えやすいものばかりを優先する傾向が出てきています。そうすると、儀式や慣習といったものはおろそかにされるわけで、そこに支えられてきた社会的基盤はもはや、断末魔をあげる間もなく、崩壊していっています。

90年代以降の規制緩和には賛否両論上がっていますが、今から10年後にはボディブローのように効いてくる可能性も高いわけです。


※第31回「フラッシュバック 90s【Report.31】1990年代後半を語る作法について(序)」はコチラ
※本連載の一覧はコチラをご覧ください。

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西部邁

神田 錦之介

投稿者プロフィール

京都大学大学院人間・環境学研究科修士課程修了。
大切なことを伝えることとエンターテイメントは両立すると信じ、「ワクワクして、ためになる」文章をお送りします。

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