世界と国家と人生
- 2013/12/13
- 文化, 歴史
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言乃葉
国家の持つ思想体系は、多くの要素を統合した歴史と伝統から構成されています。この中で言葉は、非常に重要な要素の一つです。
心は言葉によって、世界に対して作用します。言葉は、感情、意志、考えなどを伝え合うために必要な共有財産です。意見の同意どころか意見の対立のためにも、共通で共有の通約可能な言葉がなければならないのです。世界を構成するものは、言葉によって構成されるのです。ですから、国家を構成するものも言葉によって構成されます。この言葉を用いて、人間は関係を築いていくのです。言葉は、それ自体で一つの思想の様式なのです。
そこで、国家間で言葉が異なれば、それは思想の様式自体が異なるということになります。これは大きな違いです。それゆえ、ある国家が、その国特有の言語体系(ただ一つの言語にしろ、ある複数の言語群で構成されているにしろ)を備えているということは、その国家が、明確で特異な様式を持ち、その様式によって国際関係、つまりは世界に臨んでいるということになります。言葉は、国家の境界線に強く作用する要因の一つなのです。
ただし、仮に世界が単一言語、例えば日本語しかない状況や、英語しかない状況、あるいは中国語しかない状況や、エスペラント語だけしかない状況だったとしても、国境線が引かれ、世界に複数の国家が存在するようになることが予想できます。同一言語を母国語とする人同士でも、あらゆる要素で関係したり無関係になったりするのですから。さらに、関係した上で敵になったり、友になったりもするのですから。
例えば、同一言語内における二つの異なる集団が、「正しい」という言葉が指し示す状況を別様に見なしているならば、それらの集団が共に生活することは極めて困難になります。ですから、国家間の相違が言語の相違性に及ぶ場合、国家の境界線が強く作用する傾向がある、とは言えると思います。ですが、もっと根本的なことは、人間は言葉によって様々な境界線を引くということです。その中でも、いくつもの境界を統合した大枠の境界として、国家という重要なあり方が考えられるのです。国家はそれぞれに、各々の正しさを持ち、それは他国の正しさとの関係の間で調整されるのです。
日本人
国家については、歴史的伝統的な相違によって、自国の正しさと他国の正しさを比較することが必要となります。その必要性の関係性において、国家の境界線は引かれるのです。
自国とは、精神の奥底で、自分の思考・志向が基づいている様式です。それに自覚的になることは大切なことだと思われます。自覚的になった上で、その様式を引き受けるにしろ、はねのけるにしろ、意識的な関わりをどのように処するかを判断するために「この国家」についての考察が必要になります。
本論文を読んでくださっているあなたが日本という国家に属する日本人なら、あなたにとって日本国の日本人であるということが大きな意味を持ちます。そのため、「日本とは何か」、「日本人とは何か」という問いが問われることになるのです。
補足説明
本論文は、『日本式 正道論』という私の主著にあたるものの序章をASREAD向けに編集したものになります。私の考え方の基礎的な部分がつまっているため、はじめはこの論文からご紹介させていただくことにしました。少しでも興味をもっていただける方がおられるなら、それはとてもありがたいことです。
コメント
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大変興味深く読ませて頂きました。ブログも拝読させて頂きます。
ありがとうございます。
ブログの方でもいろいろと論じていますので、興味がありましたら見ていってください。