パッチワーク経済学-リフレ派の幻想-(前篇)

 前回は潜在GDPの定義をめぐる議論についてお話ししました(拙稿『見たくないものを消し去るという大愚-潜在成長率のパラドックス-』参照)。日本における潜在GDPの定義には、既存の諸資源を全て投入した場合の産出量として定義される「最大概念の潜在GDP」と、諸資源の過去平均の投入量によって決まる産出量として定義される「平均概念の潜在GDP」があり、現在の日本では内閣府も日銀も平均概念を使っていることをお話ししました。さらに平均概念の潜在GDPは過去の総需要によって決定されたものであり、巷間言われているような「供給能力を増強することにより潜在成長率を高める」といった政策手段は、デフレギャップが存在する状況下では、かえって潜在成長率を低下させてしまうという逆説を示しました。

両巨頭の勘違い

 周知のとおり、現在、日銀が実施している量的緩和政策はリフレ派と呼ばれる一群の経済学者達の考え方に基づいています。リフレ派を代表する経済学者として真っ先に名前が挙げられるのが、岩田規久男日銀副総裁およびイェール大学名誉教授の浜田宏一内閣官房参与です。前述の如く日銀は2006年以降、平均概念の潜在GDPを採用しております。しかし、驚くべきことに、お二人とも未だに潜在GDPを最大概念のそれとして認識しているのです。言うまでもなく異なった定義を用いれば、土俵が変わるわけですから、経済認識も異なったものになります。潜在GDPは需給ギャップの算出に用いられ、今後の経済政策の方向性を決める重要な指標ですから、両巨頭の勘違いは問題でしょう。

 最大概念を用いた場合、需給ギャップ(現実GDP-潜在GDP)の上限は定義上ゼロになります。すなわち需給ギャップの解消した状態が、経済にとっての理想状態ということです。両巨頭もそう考えているわけです。他方、黒田東彦日銀総裁は違うようです。彼は日銀の展望レポート(2014年10月発表)の認識を現在まで踏襲しており、「需給ギャップはほぼ解消し2014年度後半にプラス基調が定着し、それ以降プラス幅が一段と拡大していく」と考えています(2015年2月時点)。それゆえ、こちらは平均概念で考えているようです。正に同床異夢。この場合、需給ギャップの解消は目的地とはならず、別の目的地が設定される必要があります。それがインフレ率2%の定着なのでしょう。現実GDPが平均概念の潜在GDPを上回る状態が続くということは、総需要が総供給を上回り続けることを意味しますから、継続的に物価上昇圧力が加わる経済が望ましいと考えているのです。

(参考)
岩田規久男『リフレは正しい』(2013年8月 PHP研究所)P.17
浜田宏一・安達誠司『世界が日本をうらやむ日』(2015年1月 幻冬舎)P.21

 そうした日銀ツートップの定義に関する齟齬を理論的に解消することは不可能です。平均概念の潜在GDPと最大概念のそれを同一のものと見なすためには、現実経済が完全雇用および諸資源の完全利用の達成された長期均衡状態(あるいはその軌道上)に常にあるか、もしくはその周辺をランダムに動いていると想定する必要があります。それは新古典派、現代風に言えば「新しい古典派」の経済観ですが、リフレ派の考え方とは相容れません。なぜなら新しい古典派の想定しているのは実物経済であり、そもそも貨幣が存在しないからです。その理論では貨幣的要因が実物的要因に影響しないという「貨幣の中立性」を前提としているので、貨幣を考える必要がないという立場なのです。貨幣重視のリフレ派との相違は明白でしょう。

 潜在GDPの定義に関するリフレ派内部での混乱は、リフレ派の抱える問題の一端を表しているにすぎません。リフレ派の論理は極めて錯綜しているのです。それはマネタリズム、ケインズ経済学および新古典派理論のうち都合のよいところを継ぎ接ぎしたような構造になっております。手芸のパッチワーク作品には素晴らしいものが多々ありますが、それらに共通するのは縫製がしっかりしていることです。縫い目の粗雑なもの、それどころか所々を糊で張り合わせたような代物に価値などありません。

 同様に、経済学説をつなぎ合わせるためには確固たる「接合の論理」が必要となります。それをリフレ派の学者が明示しないこと、もしくは明示できないことがリフレ派の理屈を一層分かり難くしています。抽象度の異なる諸学説を接合するためには、何故それが可能なのかという方法論的基盤から論じなければなりません。しかしそれは極めて難しいことなのです。それゆえ経済諸学説は収斂せず、併存状態のまま現在に至っているのです。

 多くの経済学者が現実を見誤る根本的原因は、自らの依拠する経済学説を通してしか現実経済を見られないことにあります。もしも現実との関係を断ち切った抽象度の高い学説に依拠していれば、誤った解釈をすること必定です。この点に関して、筆者はこれまで供給側の経済学に依拠する経済学者の政策提言に対して批判をしてきました(拙稿『ネオリベ経済学の正体』参照)。

 今回はリフレ派の眼鏡を掛けて現実経済を見ることもネオリベ経済学とは別の意味で危険であることをお話しします。リフレ派の学者の多くが自説に固執するあまり、現実の経済動向を曲解していることに警鐘を鳴らしたいと思ったからです。とりわけ金融政策を過度に重視し、金融政策だけで需給ギャップが解消できると強弁していることは今後の日本経済の運営にとって非常に問題であると考える次第です。分量の関係で二回に分けて寄稿します。

→ 次ページ「新古典派綜合のデジャブ:リフレ派の論理構造」を読む

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西部邁

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