新古典派綜合のデジャブ:リフレ派の論理構造
かつて一世を風靡した経済学説にポール・サミュエルソンの提唱した「新古典派綜合」がありました。それはケインズ経済学と新古典派経済学を融合させる試みでした。但しサミュエルソンの意味するケインズ経済学は、アメリカ・ケインジアンに共通の「ケインズ経済学を均衡論的に解釈した学説」であり、ケインズの経済学とは似て非なるものでした。端的に言えば、「ケインズの経済学」から不確実性を排除した学説です(詳細は、IS-LM分析をめぐる問題との関連で別の機会にお話しします)。
新古典派綜合は二階建て構造になっており、一階はケインズ経済学、二階が新古典派です。一階と二階を現実経済が行き来するという話です。経済が不完全雇用状態にある時、経済は一階の不況の間にいると想定されます。一階では新古典派の市場メカニズムが十全に機能しません。そこで政府が拡張的な財政政策をすることによって完全雇用を目指します。財政出動によって二階へ梯子を掛けるのです。首尾よく完全雇用が達成されたら、経済は二階の新古典派の間へ行き着きます。二階にいる限り、市場メカニズムが機能しますから、政府は余計なことをしない方がよい、となるわけです。
すなわち、不況状況をケインズ的な財政政策によって克服し、その後は市場に委ねましょうと言う政策論です。この理屈は非常に分かり易いため、1950~60年代に広汎に各国の政策担当者に支持されました。しかし、政策論としては分かり易いのですが、経済理論としては当初より欠陥を持っておりました。ケインズ経済学はマクロ理論、他方、新古典派はミクロ理論です。もちろん、個(ミクロ)を足せば全体(マクロ)になるのは当然のことです。それのどこに問題があるのでしょう。実は個の想定が違うのです。新古典派ミクロ理論の想定する個人は、同一の価値観すなわち同一の行動基準を有するという意味において同質的個人なのです。しかしケインズ経済学は同質的な個人を想定しておりません(古典派の第二公準の否定)。以前、異質的個人を想定していると解釈できると論じたのはそのためです(拙稿『経済社会学のすゝめ』参照)。
一階と二階を現実経済が上ったり下りたりすると考えた場合、経済を構成する個人はどうなるのでしょう。一階では各々の価値観に基づき多様な行動をとっていた異質的個人が、二階へ上がるとみな同質的個人に変わる。逆は逆。これは無理があります。理論としては成り立ちません。個人の価値観(行動基準)が景気状況によって変動するといった理屈はさすがに造れません。また経済思想の観点から眺めた場合も、一階はケインズの間ですから介入主義であり、二階は新古典派ですから非介入主義です。これでは政府も思想的に股割きになってしまいます。それゆえ、後にサミュエルソンがこの見解を取り下げたことは当然と言えるでしょう。
リフレ派の論理を辿っていると、筆者はかつての新古典派総合を想起します。既視感とでも言いましょうか。双方は共に「二階建て」の論理構造なのです。さらに一階と二階をつなぐ論理に矛盾があることも共通しています。岩田副総裁は日銀の講演会および著作等で、また浜田氏も前掲書や他の諸著作の中で、たびたび「需給ギャップは金融政策で埋められる。すなわち現実経済を潜在GDPの水準まで引き上げることはできる。しかし、そこからは政府の役割だ。しっかりした成長戦略を着実に実行することで潜在成長率を引き上げて欲しい」といった趣旨の発言を繰り返しております。
日銀はデフレ不況脱却に関しては責任を持つが、中長期的な潜在成長率の引き上げについては政府の役割と考えているのでしょう。この「役割分担」という考え方を媒介として、リフレ派は成長戦略を声高に叫ぶ構造改革派、規制緩和派、押しなべて言えばトリクルダウン派といった新自由主義的政策を推進する勢力(いわばネオリベ経済学派)と手を結ぶことが可能になったのです。アベノミクスの中で、二人三脚でやって行こうとしているのですから、学問的動機から発したリフレ派も政治権力への接近という世俗的動機から発したネオリベ派と同列に位置づけなければならなくなりました。両派の邂逅が国民生活に甚大なる悪影響を及ぼすことになるのですが、そうした経済社会学的分析は後に論じ、先ずはリフレ派の理論構造の問題点から説明しましょう。
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