二階建て構造の住人達
リフレ派の一階も新古典派総合と同じくデフレ不況の間ですが、ケインズは住んでいません。リフレ派の大好きなマンデル・フレミング理論に追い出されているのです。替わりにミルトン・フリードマンが住んでいます。より一般的にマネタリズム(新貨幣数量説)が居座っていると言ったほうが適切かもしれません。但し、リフレ派の多くはデフレと不況を分けて考えますから、デフレ不況の間という表現は彼等には受け容れ難いかも知れません。以前、「デフレは貨幣現象だから消費税増税をしても実体経済に悪影響はない」と言っていたリフレ派系の政治家もいたくらいです。しかし、同時にリフレ派は「デフレは悪い」とも主張しているわけですから、デフレによって実体経済が痛んでいることを言外に示唆しているのと同じです。実体経済が均衡もしくは好況にあれば問題は生じないわけですから、消去法で言えば、デフレと共存する経済状態は不況しかないことになります。
「ケインズ的な不況状況、すなわち総需要不足が原因の不況下においてマネタリズムに基づく政策を採ると、人々の期待が変わり、総需要が増え、需給ギャップは解消される」というのがリフレ派の論理の概要です。これは、曲芸のような論理構造に思えます。需要側の経済学であるケインズ経済学では不況を想定できますが、供給側の経済学に連なるマネタリズムには不況が存在しません。セー法則に依拠しているため、売れ残りが発生しない世界なのです。
さらにマネタリズムは貨幣の中立性を主張する論理です。貨幣の流通速度(名目GDP/貨幣量)の値が一定もしくは安定的に推移すると考えているのです。その想定によって初めて、「デフレ(もしくはインフレ)は貨幣現象」となるのです。その論理は、貨幣が非中立的となるケインズの世界(現実の世界)と馴染むものではありません。但し、強引にマネタリズムの論理に基づき貨幣的要因から実物的要因へ影響を及ぼす「技(理屈)」があります。それはミルトン・フリードマンの提唱した「自然失業率仮説」の中に見て取れます。
自然失業率仮説は、経済は長期的に自然失業率に対応する産出水準から乖離することは出来ないとする論理です。しかし、インフレ期待が一定の短期にあっては、それは可能となります。代表例は情報ラグの想定です。個人は自分が関与するミクロの価格情報を即座に認知できますが、物価水準のようなマクロの価格動向を認知するには時間を要すると想定するのです。その場合、情報入手の時間差によって、個人は一時的に貨幣錯覚を起こします。例えば、中央銀行が貨幣政策を変更し民間へ注入する貨幣量を増やした場合、数量説に従えば、ミクロの商品価格は上昇します。政策前と同じインフレ期待(例えば0%)をもつ各個人はそれを相対価格の変化と捉えて生産量を増加させてしまうのです(均衡からの乖離)。後になって物価水準も同率だけ上昇したことに気づき元の生産量(均衡水準)に戻すといった具合です。
お分かりのように、この推論過程において「貨幣量が物価水準を決める」というマネタリズムの論理は保持されています。しかし、現実のインフレ率と期待インフレ率にギャップを生じさせれば、実体経済(産出量)に影響を及ぼすことが出来ました。基本的にリフレ派は、このマネタリズムの論理を援用しています。しかし、ミルトン・フリードマンは、政府の裁量的行動によって人々の予想を攪乱することは民間の資源配分を歪めるという理由で批判しておりました。それゆえ、「裁量よりルールを」と提唱していたのです。存命であれば、民間にサプライズを与えた黒田日銀総裁の放ったバズーカ第二弾をどう評価するのでしょうか。
リフレ派の二階の住人は新古典派ではありません。実はリフレ派は、新しい古典派と仲が悪いのです。自然失業率仮説を見て、少しおかしいなと思われたことはありませんか。合理的経済人が何度も予想を外すことに。実はこの論理は、学習過程を考慮していないのです。一度痛い目に会えば、次に備えるのが人間の本性ですから、学習効果を考えないのは問題でしょう。他方、新しい古典派はマネタリズムの上を行く「超」合理的経済人を想定しております。合理的期待を形成する経済人がそれです。合理的期待とは現在考えられる最新の経済モデルと統計データを用いて行う予想のことです。それも瞬時に行います。現在の全ての情報を用いて将来を読み取る経済主体は貨幣錯覚を起こしません。例えば、合理的主体が自然失業率仮説を知っているならば、貨幣政策変更の結果を事前に察知してしまいます。そのため目先のミクロの価格動向に惑わされることはありません。リフレ政策は、合理的経済人のみから構成される新しい古典派の世界では効果がないのです。
さらにリフレ派にとって都合の悪いことに、新しい古典派は、財政政策はもとより金融政策の効果さえも完全に否定していることです。冒頭でお話しした通り、貨幣さえない経済を想定しているのですから、貨幣市場も存在しません。それでは二階の住人として相応しくありません。二階の住人は、リフレ派のパートナーになり得る人でなければならないのです。それが供給側の経済学に依拠しつつも、その論理を都合よく解釈し、特定の社会勢力の利益の実現を図ろうとしているネオリベ経済学なのです。成長戦略が一階と二階を結ぶ階段なのです。ネオリベ経済学者達も、リフレ派が日銀という経済権力の中枢に居座るかぎり、呉越同舟で歩んでいくことでしょう。
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