百田尚樹の「殉愛」に欠如していたもの
- 2015/1/5
- 文化
- 殉愛, 永遠の0, 百田尚樹
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「殉愛」における性愛描写の欠如
「殉愛」の細部に関する違和感は既に大炎上中のインターネットにアクセスすれば暇な熱意ある皆さまが大いに調査されている為、逐一取り上げることは致しません。唯一取上げたいのがたかじんと未亡人の間に肉体関係が無かった事実に関する描写についてです。なぜ取り上げたいかと申しますと、ただただしつこい。通奏低音のように、物語の切れ目にふっとその事実を差し込んできており、その数は六回に及びます(小菅調べ)。
この人はなぜ私を求めないのだろう。いつもしんどそうだから、そういうことをする気にならないのだろうか?もうおじいちゃんだから、そういう欲望がなくなったのだろうか?(七五頁)
実はこの日までたかじんとは一度も肉体関係がなかった。性的な意味での体の愛撫もない。(一一四頁)
実はこの時点でも、さくらとたかじんは一度も肉体関係がない。出会ってからしばらくの間、たかじんは、さくらと結ばれたいという意味のことを何度か日記に書いているが、それを果たせないうちに病気がわかった。その後はさくらを大切にするがゆえに手を出せないという心境が綴られている。(一六五頁)
実はこの時点でも、まださくらとたかじんは一度も肉体関係がない。(二三一頁)
実はこの日に至ってもまだたかじんとさくらは一度も肉体的に結ばれていない。この夜はいわゆる新婚初夜だったが、ただ抱き合って眠った。(三三〇頁)
「あーあ、ひとつ心残りがあるなあ」
彼はベッドに寝そべりながら天井を見上げた。
「なあに?」
「もっと元気なときに、さくらとしといたらよかった」
一瞬何のことかわからなかったが、気付いたときは恥ずかしかった。(三六九頁)
これら一連の描写に続く、肉体関係が無いことの理由説明として、「他の女に処理してもらっていた」「大切にするがゆえに手を出さない」「たかじんが体力的に自信がなかったから」等々一貫しておりません。この為、コンスタントにセックスレスであることに言及が有るものの、その伏線の意味合いを読み手は最後まで回収することができません。百田氏が書くことを決意した「一言」への熱~い想いと読み手側の冷静さに生じた温度差と同じく、このセックスレス描写も興味を掻き立てたまま宙ぶらりんとなり、物語の仕掛けとして失敗してしまっています。
敢えてその意図を読み解くとすれば、引用部分で傍線を引いた「大切にするが故に肉体関係を持たない」という事実から「肉体関係を持たない愛とは崇高なものである」という、プラトン的愛への優位性を認める価値観らしきものです。だとしても、私はこのプラトン的愛に価値観の優位性があるという主張には真っ向から反対です。大人の男女が一つ屋根の下一緒に住んで、やることはひとつじゃねえですかといった出歯亀根性からくる茶々入れだけではありません。私は、男女間の性愛は、身も心も一対になれる瞬間を味わう心持ちの良さと、その反動から来る拒絶の感情を行き来するなかで均衡状態を探る(そして多くの場合均衡は望めない)営みの連続であると考えます。「へんずり」発言で性愛には造詣が深いと思われた百田氏ですが、案外と通り一遍の性愛描写をしてしまったものだと思います。
因みに、百田氏の大ベストセラーである「永遠の0」では、性愛の描写は緻密に行われており、物語の伏線(複線)として大変重要な働きをしております。「永遠の0」については、本サイトに連載中の小浜逸郎氏の最新寄稿「『永遠の0』私はこう見る」にて、「エロス的関係」と「公的(社会的)関係」という強力な枠組みを活用しながら論じておりますので、私が付け加えるべきことはありません。
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