『金閣寺』から見る三島由紀夫の美の追求

いつもの金閣寺が、急に輝き出す瞬間

 そんなある日、彼は、その現実のつまらない金閣寺が、自分の心の中の理想の金閣寺以上に美しく輝きだす二つの瞬間を経験します。一つ目の瞬間は彼の友人と二人で金閣寺にいる時です、友人が尺八で音楽を奏でると、なんとその時に、突然金閣寺が輝き出したのです。

 一体、何故音楽が流れた時、突然金閣寺は輝きだしたのでしょうか?それを三島は次のように解説します。

 音楽とはすぐに消えていくもであり、旋律というものは聞いているそばから絶えず消えていきます。一方で、絵というものはずっとそこにあり続けます、その意味では金閣寺は絵です。旋律というものは、皆が感動しますが、しかし「じゃあ、どれに感動したの?」と問われても、「コレだ!!」というように指示すことは出来ません。音楽とは順々に聞こえては消えていく存在です。つまり、音楽=瞬間の連続であり、時間なのです。つまり、金閣寺という何百年とそこに立ち続ける不滅の存在である金閣寺に、音楽が流れた瞬間に、不滅であったはずのそれが有限になったのです。不滅のはずの金閣寺に音楽という時間が加わることで滅びゆくものになったことで、その瞬間に、彼の中で金閣寺が輝き出しました。

三島が描いた時間と空間と美の関係性

 しかし、このように考えるとある種類の美とは不思議なもので、例えば、この金閣寺を読んだときに、読者が「これは名作だ!!」と思ったとします。ところが、では「どこが?」と時間軸で問われたときには、やはり音楽と同様に「コレだ!!」と指し示すことは出来ません。その美は静止した絵ではなく文章であり、文学であり、音楽と同じように読んでいき自分の中でイメージを形成し読んでいくそばから消えていき、また次のイメージへと流れていくものです。ですので、一瞬でその全体を経験することは出来ません。

 ところが、面白いことに、例えばこの金閣寺を読むのに3日かかったりするのですが、しかし、思い起こすときにはそれは一瞬です。つまり経験は線であるのに、想起においては点なのです。不思議なことに、文学作品を体験する段階では明らかに時間的な幅を持った線であるのに、思い起こすときには、その時間を完全に圧縮させた点になるという関係性を持っているのです。この視点で金閣寺の存在を考えた時に、イメージの金閣寺は時間性を持たない点です、しかし、実際の金閣寺は、そのような意味においては実際の時間を流れる線の存在なのであり、常にうつろいゆく音楽と同じです。では一体、この現実の時間を流れる線の存在と、記憶やイメージの中にある一瞬の点の存在のどちらが本当の美であるのか?そんな問いが金閣寺という作品の中に隠されているのです。

 もう一つの、金閣寺が輝き出す瞬間は、戦争の時に訪れます。金閣寺とは何百年と続く、まるで未来永劫続くかのように思える、いわば時間の海を渡ってきた船のようであると三島は言います。しかし、そんな滅びるはずのなかった船である金閣寺が、「戦争による空襲などで滅びるかもしれない」そう思い始めた瞬間に金閣寺は輝きだします。つまり、三島由紀夫の美意識とはそのようなものですね。

愛と美は終わりがあるからこそ光り輝く?

 三島は、かつて「私は愛には興味はない、恋だけに興味があるのだ」というような発言をしたことがあります。これはつまり、愛とは永遠、あるいは少なくとも長く安定した感情である一方で、恋とは一瞬で消えゆくもの、終わりがあるもの、常に終焉を強烈に意識させられるものであるからかもしれません。

 また、同時に三島は、人生の最後である死について徹底的にこだわりました。三島はある時次のように語り

 リルケが書いておりますが、現代人というのは、もうドラマティックな死ができなくなってしまった。病室の一室で一つの細胞の中のはちが死ぬように死んでいくと。いうような事をどこかで書いていたことを記憶しますが、現代の死は、病気にしろ、交通事故にしろ、なんらのドラマがない。英雄的な死というものの無い時代に我々は生きています。

 そして、山本常朝の『葉隠』の例をひいて、劇的な死、華やかな死というものが無くなってしまったことを嘆きます。そして、自身は自衛隊に向かって「憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。もしいれば、今からでも共に起ち、共に死のう」と叫んで自決します。

 三島の自決事件の当時、多くの知識人は、頭がおかしくなった作家の常軌を逸した行為であると評したそうです。しかし、本当にそれだけだったのでしょうか?

 ある説では、あの時三島は本当には自決するつもりはなかったとも言います。つまり、単に成り行き上引くに引けなくなってしまったと。たしかに、そうだったのかもしれません。しかし、それでも、一方で、「やはり三島にはあのような結末以外あり得なかったのだ!!」と言われれば、そちらにも納得できます。

→ 次ページ「自決によって自らの人生を「完結」させた三島由紀夫」を読む

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西部邁

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コメント

    • アンチ高木
    • 2014年 12月 29日

    経済だけ論じてればいいのに、もう文化人気取りかよ

  1. 太田光の金閣寺論のパクリかな?

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