見たくないものを消し去るという大愚ー潜在成長率のパラドックスー

 見たくないものを理念的に消し去ることは可能です。頭の中で「そんなものは存在しない」と強く念じ、一見もっともらしい「存在しない理屈」を造りだせばよいからです。あとは出来るだけ多くの同志を募り、皆でその理屈を大声で喧伝すれば、世間と隔絶された小さな世界である経済学界など容易に席巻できるのです。経済学者達を集団幻想状態に陥らせることができるのです。その理屈が主流派経済学に基づいている限り、抗う学者など皆無でしょう。

 前回の論稿(「主流派経済学と不都合な現実」)では、主流派経済学者が、彼等の論理では想定できない現実(現象)を抹消する方法について、非自発的失業を例に説明しました。ただし、そこに一片の現実性を加味すれば、そうした理屈がたちどころに意味を失うこともお話し致しました。机上の空論に基づくのではなく、経済社会学的立場から現実経済を見ることの重要性の一端をお判り頂けたかと思います。
 今回は、「見たくなくても現存するもの」の消去方法について述べます。主流派経済学者が見たくないものでも、それが現存する限り世間の人は見てしまいます。誰の目にも留まる統計数値が好い例でしょう。ここでは世間の人の目を覆うために彼等が如何なる方法を用いているかについて考えます。主流派経済学者は「現実が見えない眼鏡」を自ら掛けているのに飽きたらず、世間一般の人の目まで塞ごうとしている事実を指摘します。

理論と現実をつなぐ統計数値

 理論と現実の間に位置するのが統計です。現実の経済活動の結果は統計数値に反映されるからです。経済統計は大雑把に言って五つの分野から成り立っています。すなわち経済規模、需要面、供給面、金融面および国際面の動向に関する諸統計です。このうち最も重要なのは、GDP統計に代表される経済規模の変動に関する指標です。四半期ごとに発表される経済成長率の動向は現状を端的に映す鏡であり、今後の政策決定に甚大なる影響を及ぼしていることは言うまでもありません。
 しかし、いくら重要であるにしても、統計数値はあくまでも数値に過ぎません。数値が理屈を語ることはできないのです。それゆえ統計数値を解釈する論理、すなわち経済学説が必要となるのです。逆に、経済学説の現実妥当性は、関係する統計数値により常にチェックされる定めにありますから、両者は緊張感を保ったパートナーと見なすことができるでしょう。
 さて、以前お話しした通り(「ネオリベ経済学の正体」参照)、経済学には相反する二つの経済学説があります。ケインズに代表される「需要側の経済学」と、新古典派とその後継の諸学説から成る「供給側の経済学」です。両者は、経済規模の決定に関して全く逆の見解を保持しています。言うまでもなく、需要側は総需要がGDPを決定すると考え、供給側は「セー法則」に基づき供給要因(諸資源の賦存量と生産技術)がGDPを決定すると考えています。三十年ほど前から(日本では二十年ほど前から)、経済学界における主流派はケインズ経済学から供給側の経済学に交替しました。
 
 それでは最も重要な指標であるGDP統計は、果たしてどちらの学説で解釈するのが現実的に見て適切なのでしょうか。解釈の仕方によって今後の経済政策が全く別物になるのですから、この点をないがしろにはできません。「造ったものが全て売れる」と考え総需要不足は存在しないとする供給側の論理か、売れ残りの可能性を否定しない需要側の論理の何れが現実的な見方なのでしょうか。答えは誰にとっても明白でしょう。無論、ケインズ経済学です。
 しかし、経済学者の多くは一般の方達とは逆の回答をします。そこには主流派経済学の交替という経済学界の事情が介在しております。長きにわたって、大多数の経済学者の関心が論理的厳密性の追求に移り、現実分析は等閑にされてきました。更に、ほとんどの経済学者がケインズ経済学を既に捨て去ってしまっていたために、立場上、今さらケインズを持ち出すことができないという事情もあります。結果的に、現実分析に全く役立たない供給側の論理で現実を解釈せざるを得なくなったのです。これが現代における経済論理の濫用の原点です。おもちゃの鉄砲を持って戦場に赴くことになったのです。勝てるわけがありません。

 それでも主流派経済学者は強弁を続けます。「(供給側の論理を前提とする)トリクルダウン政策の恩恵を受ける社会の支配層からの強力な支援を受け、彼等は行政内部にまで入り込むことに成功しました。主流派の有する学術的権威および権力を利用しようとする官僚やエコノミストがこれに追随します。その結果、大学教授、官僚、民間エコノミストからなる主流派インナーサークルができ、それを支援する財界人や政治家とともに一種の利益共同体が形成されているのです。増税による財政再建派や構造改革派の面々を見れば、社会横断的に政・財・官・学界を貫いて存在していることがお判り頂けるでしょう。
 そうした権力を背景に、主流派経済学者は供給側の論理に矛盾しないように統計概念の変更を目論んできました。具体的には統計概念の定義を変更したり、解釈を変えたりしてきました。「供給側の経済学仕様の統計概念」に作り替えるためです。名称は同じでも以前と内容が変わってしまった統計指標が登場するに至りました。一般の人達がこれに気付くはずはありません。名称が同じなら内容も変わらないと思うのは当然だからです。主流派経済学者は実に巧妙に世間の人の目を塞いでいるのです。

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西部邁

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コメント

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