見たくないものを消し去るという大愚ー潜在成長率のパラドックスー

改竄(ざん)された定義

 統計概念を歪める最も簡単な方法は、統計指標の定義を変更することです。しかし、政府の発表する統計の定義を変更することなど如何に主流派経済学者と雖も出来るはずがないと思われるでしょう。ところが政治家や官僚たちの支援があればできるのです。
 実際、2001年に第一次小泉内閣で民間人として経済財政政策担当大臣に就いた竹中平蔵氏は、内閣府の発表するGDP統計における最も重要な政策判断基準である「潜在GDP」の定義を変えてしまいました。その定義の変更は、「平成13年版経済財政白書(2001年12月)」においてなされています。もちろん、経済財政白書は経済財政政策担当大臣の名の下で(責任監修の下で)公表されているわけですから、その定義の変更が彼の意向に沿うものであったことは明白でしょう。

 なぜ潜在GDPは重要な指標なのでしょうか。それは景気の判断指標であるデフレギャップ(GDPギャップもしくは需給ギャップ)を算出する基礎になるからです。デフレギャップは「現実GDP-潜在GDP」として定義され、ギャップの大きさに基づき今後の経済政策、特に財政政策の規模が決定されることになります。それゆえ定義の変更はデフレギャップの算出額を変えることになり、ひいては経済運営全体を変えることになるのです。
 潜在GDPの定義はいくつかありますが、日本では生産関数アプローチに基づいて算出されています。諸外国では「オーカンの法則」や「NAIRU(インフレを加速させない失業率)」等を使って推計している場合も多々あります。生産関数とは資源の投入量と生産物の産出量の間の技術的関係のことです。どれくらいの労働と資本を投入すれば、どれほどの生産物が産出されるかを示すものです。資源の投入量から潜在GDPを推計するのが生産関数アプローチです。それゆえ問題は、「何を投入量と考えるか」にあります。

 2001年以前は、社会に存在する諸資源を全て投入して得られる産出量を潜在GDPとしておりました。これを「最大概念の潜在GDP」と言います。それは働く意欲のある人すべてが雇用された状態、いわゆる完全雇用状態における産出量を意味します(しかし、完全雇用の概念も非正規雇用の増加という経済構造の変化に伴って以前と解釈を変える必要がありますが、ここではその問題は不問に付します)。それゆえ最大概念の潜在GDPは、総需要で決定される現実GDPの天井として位置付けられます。この場合、デフレギャップは常に非負値となり、正値を取ることは出来ません。また最大概念の潜在GDPは、まさしく「供給側の要因のみ」で決定されています。この認識は、今後の議論を理解する上で非常に大切なものです。

 2001年に行われた内閣府の定義の変更は、投入量として「諸資源の過去平均の投入量」を採用したことでした。これを「平均概念の潜在GDP」と言います。国民経済の潜在能力とは諸資源をフルに使った場合の生産能力ではなく、過去の平均的な諸資源を使った場合の生産能力のことであると解釈を変えたわけです。他方、日本銀行は長らく最大概念の潜在GDPを用いてきましたが、2006年以降は平均概念の潜在GDPに変更して現在に至っております。

 この「最大」から「平均」への定義の変更によって、デフレギャップという言葉は座りが悪くなってしまいました。なぜなら、平均概念を使うと現実GDPが潜在GDPを上回ることが論理的に可能となり、デフレギャップが正値を取ることができるためです。その場合、「マイナスのデフレギャップ」が生じます。なんとなく言い難いでしょう。その状態をインフレギャップと言えばよいではないかと思うかもしれませんが、事はそう単純ではないのです。
 なぜなら現実GDPが潜在GDP(過去平均のGDP)を上回っても、インフレが生ずるとは限らないからです。例えば潜在GDPが20%の失業率に対応する生産水準で、現実GDPはそれを若干上回る19%の失業率に対応する水準だとします。観念的にではなく現実的に見れば、その状況はデフレ不況ですから、必ずしもインフレが発生するとは言えないでしょう。それゆえGDPギャップという言葉が普及することになりました。「デフレ」というケインズ的状況を、言葉の上でも無くそうと画策した結果と考えるのは穿ちすぎでしょうか。

平均は現実に近づき、現実を理想と化す

 それでは何故この定義の変更が問題なのでしょうか。実はこの変更の背後には、ケインズ経済学から供給側の経済学への経済観の転換が潜んでいるのです。最大概念を用いた場合の政策目標は明確です。非自発的失業をなくし完全雇用の達成を目指すことにつきます。そのための手段がケインズ政策です。
 他方、平均概念を用いると過去平均の雇用水準が目標値とされます。例えば、過去平均の失業率が10%だとすると、その水準を目指すことが政策運営の目標になります。過去平均が20%であっても、30%であっても目的地はその水準になるのです。それを国民経済の潜在能力と定義したのですから、それ以上の力を発揮してはならないのです。
 こうした平均概念の考え方は、まさに供給側の経済観そのものです(特にマネタリズム)。すなわち、過去平均を経済の長期的均衡状態と捉え、そこからの乖離は裁量的な政府活動の攪乱によるものだという見解です。もちろん、そこでは非自発的失業など考慮の埒外です。失業率が20%であっても、それは全ての合理的主体が自発的に20%の労働供給を減らすことを選択した結果であると考えているわけです。その水準が自然失業率なりNAIRUと考えているのです。

 また、「平均は現実に近づく」ことも主流派にとっては好都合です。どれほどの不況状況にあったとしても、その状態が継続すれば必ずそれは平均となるのです。先程の例を用いるなら、失業率20%の状態が10年も20年も続けば、いずれそれが平均値になるのです。すなわち社会の目指す潜在GDPの水準に達するのです。平均を理想とする主流派の論理は、まさに平均概念の潜在GDPの定義に合致するのです。しかし、この平均概念の定義には大きな陥穽があります。

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西部邁

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コメント

  1. このようなものを発信しています。お目をお通しいただければ幸いに存じます。

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