経済社会学のすゝめ
- 2014/8/6
- 経済
- アダム・スミス, ケインズ, シュンペーター
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シュンペーターとケインズに学ぶ
こうした状況下で、現実経済を分析するための理論的フレームワークは如何なる形態をとるべきでしょうか。多様なミクロ主体から成り立つ社会という想定を維持しつつ、現実を分析するための要諦となる学説な何でしょうか。私は、シュンペーターとケインズであると考えます。同時に、両者の論理を統合することが有用であると感じています。
「企業者による革新の遂行によって資本主義経済は発展する」とのシュンペーターの主張から、彼が異質的主体の存在するミクロ的状況からマクロ的状況への効果波及過程を重視していたことは明らかでしょう。さらに経済領域の論理に留まらず、社会領域そして歴史過程さえも視野に収める分析を可能にした彼の方法論的考察に比肩し得る社会学者は皆無であろうと思います。
ただし、彼の経済論理を現代に直接当てはめることは不可能です。現実的に見て、ミクロ的状況が影響を及ぼすのは企業および産業レベルです。そこからマクロ的状況に反映される。シュンペーターは、『景気循環論』(1939)において革新の産業レベルでの分析を行っていますが、マクロ経済への波及経路が明確に示されたとは言い難い。直感的に、彼の考察は正しいと思いますが、マクロ経済を説明する分析装置、特に需要サイドのそれが充分ではないのです。
「政府が介入しなければ資本主義経済は立ち行かない」という介入主義を標榜したケインズは、『雇用、利子および貨幣の一般理論』(1936)において労働供給に関する「古典派の第二公準」を棄却して、明確に新古典派ミクロ理論から決別しました。そしてマクロ経済学という新分野を創設したのです。もちろん、彼が捨て去ったのはミクロ的状況に関する新古典派的見解(同質的主体の想定)であって、現実に生起する諸個人の行動を無視したわけではありません。彼の論理を彩る様々な概念、例えば「不確実性」、「アニマル・スピリット(血気)」、「美人投票の論理」、「貨幣愛」、「期待」、「流動性選好」等々は、正に現実の人間行動の観察から発したものと察せられます。
ケインズの場合、彼の考えるミクロ的状況を説明するミクロ理論を持ち得なかったと考えるべきでしょう。あえてそれをしなかった。それは現段階で私達の置かれている状況と全く同じです。それゆえケインズ経済学を、多様な主体の存在する社会を前提とした学説と解釈できるのです。
ただし、ケインズの場合も現実的なマクロ分析としては傑出した論理ですが、あくまでも経済分析に留まっていることも事実です。経済運営に関する有用な学問であるとしても、その先は教えてくれない。社会とのつながりの論理までカバーできない。シュンペーターのような時代を見通すヴィジョンを提示するものではないのです。「優秀な官吏」と「多様な個人の集団」という官民の対峙がケインズの社会的画面の基本構図です。彼の経済論理を社会学的および歴史学的に膨らませるためには、さらに国家や権力に関する他学科の知識や成果と結合させることが必要となりましょう。
「理論づけられた現代」を語るには
経済社会学は現実社会を分析するための里程標です。それは確固として確立された学問ではありません。教科書もありません。いわば各時代の一端を説明する論理の礎石です。経済学を中心とした社会諸科学の成果の統合という方法論は認知されてきましたが、何を以て経済社会学的研究と見なすかについての客観的基準はありません。具体的な研究方向も研究者ごとに多様です。
私は、一般に学際的研究と呼ばれるもののうち、「時代性」のあるそれを経済社会学的研究と考えています。いつの時代も、どの国にも、どんな人にも当てはまるという「普遍性」は、ほとんど重視しておりません。経済社会学の成果は、「時代を説明できるか」、「現実妥当性はあるか」、「現代人を納得させられるか」によって決まると考えております。そうした基準からすれば、経済社会学の個別的な成果は程なくして歴史に埋もれてゆくことになります。しかし、「現実の本当のところを知りたい」という人間の探究心が普遍的であるとすれば、経済社会学の成果もまた形を変えて存続してゆくのです。
経済社会学研究は、決して難しいものではありません。例えば、選挙時の投票行動を考えてください。ある候補者が自分の政治信条に合致していたとします。しかし、彼の経済政策は自分の生活基盤を崩しかねないものだとします。さて、あなたはどう行動しますか。それを考えること、そして自分なりの理屈に合った判断を下すことは立派に経済社会学的研究の一端を担っていることなのです。
コメント
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興味深い論考をありがとうございます。何点か気になった点があり、さらにご説明いただければ幸いです。
1.「主流派経済学は人間を社会的存在と見なさない」の項は基本的に間違っていると思いました。効用関数に入っているものはすべて交換可能でなければならない、というのは正しい指摘だと思いますが、物欲以外の社会的な活動から得られる満足が交換(=比較)可能でないと考えるのは誤りではないでしょうか。実際、その後の部分で、筆者自身が「子どもの入学式から得られる満足」と「ステーキを食べる満足」を比較しています。主観的に交換可能であれば限界代替率は計算可能であり、理論上は、社会的活動からくる満足であっても、それを効用関数に含めて新古典派経済学の枠組みで説明することは可能ではないでしょうか。また、論考中の入学式とステーキの例で言えば、まず入学式から得られる満足とステーキ1枚から得られる満足が等しいという(非現実的な)仮定から出発すれば、ステーキ2枚から得られる効用が入学式から得られる効用よりも大きいという(非現実的な)結論を得ても何ら不自然ではないと思います。そもそも、現実の経済ではステーキ1枚から得られる効用は子供の入学式から得られる効用と比較にならないほど小さいというのが現実的な仮定であって、ステーキ2枚の効用が入学式の効用を上回るなどということはまずあり得ないだろうと思います。筆者は、非現実的な仮定から導かれた帰結の妥当性を、現実に照らして判断している点で、インプリケーションの導き方、解釈の導き方に無理があると思います。こうして考えると、新古典派経済学では物欲の充足が唯一の価値観ということ自体が新古典派経済学の価格理論に対する誤った理解に基づいていると思いますが、いかがでしょうか。
2.シュンペータとケインズの統合に関する項で展開されている主張は、2009年に出版された吉川洋『いまこそ、ケインズとシュンペータ―に学べ―有効需要とイノベーションの経済学』と非常に似通っていますが、この項は本書を参照したのでしょうか?そうであれば、その旨明記すべきと思いますが、いかがでしょうか?