経済社会学のすゝめ

 はじめまして。今回から寄稿させていただくことになりました青木泰樹です。宜しくお願い致します。
 もっぱら経済関係の話題についてお話ししたいと思いますが、その内容は世間一般の経済学者の見解とはかなり異なったものになると思います。なぜなら、私の依拠する経済社会学は、既存の経済学の枠に収まらない部分を分析対象とするものだからです。収まりきらない所にこそ現実における真理があると私は考えております。初回はその辺りの事情について説明したいと思います。

複雑な社会をどう理解するか

 社会は複雑です。壁を這う蔦(ツタ)のように様々な要因が絡み合っています。それを解きほぐし、その一本一本から社会事象を理解しようとするのが社会科学を構成する各学科(社会諸科学)です。複雑なものを最初から丸ごと理解することはできないので、複雑さの一面だけを取り出そうとしたのです。それゆえ各学科は相互に孤立した学問として出発しました。政治学、社会学、心理学そして経済学もまた然り。
 しかし、他学科から孤立したままでは、複雑な社会事象の一端しか見ることはできません。最終的に各学科の成果が統合されて初めて、複雑さを理解できるのです。そのことは理屈ではわかるのですが、統合の方法が難しい。それゆえ大半の経済学者は、それを目指すことなく孤立したままの状態に安住し、次第に統合の意義さえ忘れ去ってしまいました。結果的に、経済学の内部で精緻化が進み、それを以て学問の進歩と称し、遂には現実を全く説明できない現代の主流派経済学が誕生したのです(ここで言う主流派経済学とは、マネタリズム、新しい古典派、ニュー・ケインジアン等の新古典派経済学に依拠する諸学説を指します)。

 数少ない統合化を目指した学者のうち、最も成功を収めたのがJ.A.シュンペーター(1883~1950)です。彼は社会事象を「理論づけられた歴史」として叙述することを目指し、実際、諸著作を通じてそれを成し遂げました。主著『資本主義・社会主義・民主主義』(1942)はその集大成です。彼は正に経済理論から発し、社会学および歴史学の成果を取り入れることによって彼の時代の実相を説明することが出来たのです。
 私の方法論的基盤は、全てシュンペーターの着想に負っています。それゆえ、私は僭越ながら「現代版シュンペーテリアン」を自称しております。もちろん、シュンペーターの経済叙述を忠実になぞり、それを現代において反芻することを目的としているわけではありません。この点が、巷間、特に経済学説史研究に多く見られる訓詁学者との大きな違いです。「誰それという学者が、あの時、ああ言った、こう言った」と論じたところで実践的意味はありません。その段階に止まる限り、現実理解の進展にはつながらないのです。各学説の現代的意義を明らかにし、かつ現代の問題を解決するための具体的手段の提示へと進まない限り、現代社会の本質には決して近づけないのです。
 シュンペーターは彼の時代の理論づけられた歴史を語りましたが、現代を語れるのは現代人しかいないのです。私が継承しているのは、シュンペーターの経済観です。すなわち、「経済は内生的に発展する
 および「経済と社会の相互交渉の枠組みの中で社会事象を捉える」というヴィジョンなのです。しかし、ヴィジョンだけでは先に進めません。それを現代的状況に対応した分析装置として理論化する必要があります。これが私の目指しているところです。

経済学は他の学問と連結可能か

 それでは、経済学と他学科を結び付けるためにはどうすれば良いのでしょう。その契機は正に「人間の想定」にあります。社会諸科学は各々人間行動の一面を捉えたものにすぎません。経済的行動をはじめ、政治的、社会的、心理的その他諸々の行動を個別に説明することが各学科の役割です。各学科では、そうした行動を動機づける要因なり価値観を独自に想定し分析を行っています。そのため学科ごとに想定する人間像が異なってきます。すなわち経済学が想定する人間と、政治学や社会学が想定する人間とは異なるのです。社会諸科学全体に共通する人間像がないのです。
しかしながら、人間は誰しも日常的に様々な種類の行動をしています。同一の人間が買い物をしたり(経済的行動)、投票に行ったり(政治的行動)、ボランティア活動に参加している(社会的行動)のです。行動ごとに人間の価値観が変わるとは考えにくいので、いずれ人間行動に関する認識が深化すれば、すなわち社会的存在としての人間想定に関する共通認識が整えば、それを媒介に統合化への道が開かれるかもしれません。

 しかし、現実はそこまで至っておりません。その場合、経済学と他学科との関係は規定できないのでしょうか。否。工夫をすれば可能なのです。問題は、どのような人間を想定するかにあります。結論から言えば、「多様な価値観を有する人間から社会は構成されている」と想定すると経済学と他学科との連結の道が開かれるのです。言い換えれば、「異質な個人の存在を許容すること」が端緒となるのです。
 この想定は現実社会の姿として誰にも容認される当たり前のことに思われるかもしれません。しかし、この当たり前のことを想定している経済学説は少数です。シュンペーター、ケインズ、マルクスくらいでしょうか(アダム・スミスは別経路で経済学と社会の関連を論じましたが、それは後に触れましょう)。多数の経済学者が信奉する現代の主流派経済学では、これと正反対のことが想定されているのです。
 

主流派経済学は人間を社会的存在と見なさない

経済行動は各人の価値観に基づきます。その価値観の形成に「経済的動機のみが与る」とするのが、現代の主流派である新古典派経済学における主観的効用理論です。いわゆる「物欲の充足」が、そこでの唯一の価値観になります。しかし、経済学者の中には、物欲以外でも自己満足(主観的効用)を得られる一切のことは効用関数(満足度を測る秤)に入ると誤解している人も多い。例えば、「自己犠牲を伴う利他的行動であっても自己満足が得られるならば、効用関数に入る」といった類の話です。しかし、これは根本的に間違っています。なぜなら、効用関数に入っているものは全て交換可能でなければならないからです。交換できなければ限界代替率を設定できず、それゆえミクロ理論を構築できなくなるのです。
 親にとって子供の入学式へ出席することは喜びです。もちろん、ステーキを食べることからも満足は得られます。両者が共に効用関数に入るとしましょう。いま入学式への出席から得られる満足とステーキ1枚を食べる満足が等しいとします。目の前にステーキを2枚食べられる選択肢が提示された時、入学式への出席を取りやめる親はいるでしょうか。効用理論からすれば、欠席する選択が合理的となるのです。おかしいでしょう。何かが間違っている。

 実は、物欲以外から得られる満足というものは、ほとんど人間関係、より一般的には社会関係から発するものなのです。「あなたのために、郷土のために、国のために、社会正義のために生きる喜び」および「他者からの賞賛や名誉を獲得する喜び」等々。それらは個人が社会的存在であるからこそ、得られるものなのです。
 しかし、新古典派理論には、そうした一切の人間関係、より一般的には社会関係が欠如しているのです。存在しないのです。理論の一般妥当性を高めるため、抽象化を推し進めた結果、無機質な「市場システム」だけしか残っていないのです。その中に同質的な合理的経済人がいるだけなのです。彼には親も、子も、友人もいないのです。完全に孤立した存在なのです。それが新古典派の想定する社会像です。国家も国民も歴史も文化も伝統も、何もないのです。考慮の埒外に置かれているのです。それを忘れて、その理論を現実社会に当てはめようとすると、先程の経済学者のような間違いを犯すのです。

 明らかに新古典派の想定する人間は、最大限の物欲の充足を求めて合理的に行動する主体です。目的とする価値基準がひとつしかないので、達成手段の選択に関わる合理性の基準もひとつだけです。それゆえ、全ての人は同じ方向を目指す同質的主体となるのです。経済的動機以外の一切の社会的動機が人間行動に関与しない以上、新古典派経済学、より一般的には現代の主流派経済学を他の社会諸科学と連結することは不可能でしょう。経済領域の中だけで人間行動が完結しているからです。

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西部邁

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コメント

    • KS
    • 2014年 11月 26日

    興味深い論考をありがとうございます。何点か気になった点があり、さらにご説明いただければ幸いです。

    1.「主流派経済学は人間を社会的存在と見なさない」の項は基本的に間違っていると思いました。効用関数に入っているものはすべて交換可能でなければならない、というのは正しい指摘だと思いますが、物欲以外の社会的な活動から得られる満足が交換(=比較)可能でないと考えるのは誤りではないでしょうか。実際、その後の部分で、筆者自身が「子どもの入学式から得られる満足」と「ステーキを食べる満足」を比較しています。主観的に交換可能であれば限界代替率は計算可能であり、理論上は、社会的活動からくる満足であっても、それを効用関数に含めて新古典派経済学の枠組みで説明することは可能ではないでしょうか。また、論考中の入学式とステーキの例で言えば、まず入学式から得られる満足とステーキ1枚から得られる満足が等しいという(非現実的な)仮定から出発すれば、ステーキ2枚から得られる効用が入学式から得られる効用よりも大きいという(非現実的な)結論を得ても何ら不自然ではないと思います。そもそも、現実の経済ではステーキ1枚から得られる効用は子供の入学式から得られる効用と比較にならないほど小さいというのが現実的な仮定であって、ステーキ2枚の効用が入学式の効用を上回るなどということはまずあり得ないだろうと思います。筆者は、非現実的な仮定から導かれた帰結の妥当性を、現実に照らして判断している点で、インプリケーションの導き方、解釈の導き方に無理があると思います。こうして考えると、新古典派経済学では物欲の充足が唯一の価値観ということ自体が新古典派経済学の価格理論に対する誤った理解に基づいていると思いますが、いかがでしょうか。

    2.シュンペータとケインズの統合に関する項で展開されている主張は、2009年に出版された吉川洋『いまこそ、ケインズとシュンペータ―に学べ―有効需要とイノベーションの経済学』と非常に似通っていますが、この項は本書を参照したのでしょうか?そうであれば、その旨明記すべきと思いますが、いかがでしょうか?

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