労働生産性をめぐる「合成の誤謬」

 社会が個々人から成り立っている以上、たとえ一個人の行動といえども社会に何らかの影響を及ぼしていることに疑いはありません。もちろん、総理大臣でもない限り、一個人の影響力など微々たるものでしょう。しかし、個々人が集団で同じ行動をとると、事情は変わります。時には、良かれと思ってした個人の行動が、積もり積もって、社会を奈落に突き落とすことさえあるのです。本稿では、そうした「個」と「全体」の微妙な関係について、労働生産性をめぐる議論を題材に考えます

木を見れば、森を見なくともよい

 一般に経済学では個をミクロ、その集合である全体をマクロと称し、両者を対置させます。ただし、マクロを構成する個人(ミクロ主体といいます)をどのように想定するかに関しては、二通りの考え方があります。
先ず現代の主流派経済学(供給側の経済学)では、全ての個人は「同一の情報を有し、同一の価値観(物欲の充足)に従って合理的に行動する」ものと考えます。それが「同質的な個人」の想定です。この考え方の便利なところは、一個人の行動を観察するだけで全体の動きがつかめることです。無作為に誰を抜き出しても結果は同じになります。それぞれが社会を代表する存在なのです。そのため、この同質的な個人を「代表的(もしくは平均的)主体」と呼んでいます。
 木(個)を見るだけで森(全体)がわかる。どうしてそうなるのでしょう。実はこの個人の想定の根底にあるのは、「マクロの経済現象は全てミクロの合理的行動から説明されねばならない」という経済思想です。この思想は、「マクロ経済(学)のミクロ的基礎付け」という新たな研究課題を経済学者に提起するものであったため、1980年代からリーマン・ショックに至るまでの間、経済学界を席巻しました。既存のマクロ経済学(正確にはアメリカ・ケインジアンの考え方)の限界が指摘されていた当時、それに替わる新たな研究方向を渇望していた多くの研究者たちを虜(とりこ)にするほど、この思想は充分魅力的だったのです。
 もしも社会に1人の人間しかいなければ、当然、ミクロとマクロは一致します。その状況は、「個人の行動が全体を決める」というマクロ経済のミクロ的基礎づけを満たしています。しかし、複数の個人、例えばN人から成る社会をそうした状況にするためには、一工夫必要です。それが代表的主体の想定だったのです。個人を全体の「N分の一」の存在と想定することにしたのです。言うまでもなく、その場合、個をN倍すれば全体となります。まさに、木を見るだけで森を見る必要はなくなったのです。
 しかし、この主流派の想定は、経済学者に二つの偏見(バイアス)を与えることになりました。第一に、森を見る必要がないのなら、森を分析対象とする学問分野、すなわちマクロ経済学も不要だとする誤解が生まれました。木を見るミクロ経済学だけで充分であると。その結果、方法論的に言えば、大半の経済学者はケインズ経済学以前の新古典派経済学へ「先祖がえり」してしまったのです。
 第二に、こちらがより問題なのですが、マクロの経済現象がミクロ主体の合理的行動の結果であるとするならば、現在生じているマクロ現象を肯定的に受け容れざるを得ないことです。GDPの動向をはじめとして、実質消費の水準も失業率も全て個人の合理的行動の反映であるなら、かつその状況下で各個人は主体的均衡(最高に満足した状態)に達しているのであるなら、その状況を政策的に変更することは「ご法度(はっと)」です。なぜなら政府が民間へ介入すれば、個人を主体的均衡状態から引き離してしまうことになり、個人の満足度を低下させてしまうからです。大半の経済学者の現実認識が常に現状肯定であるのは、この主流派の想定に縛られているためです。
 このような色眼鏡を掛けている経済学者が学問の世界で何を言おうと問題は生じませんが、こうした考え方に基づいて現実経済を認識し、かつ政策提言を行なうとなると話は別です。社会にとって迷惑千万であるばかりでなく、国民生活自体を脅かすのです。困ったことに、実際、主流派学者達は経済理論をやみくもに現実経済に当てはめた発言を繰り返しています。その悪しき一例として、ここでは労働生産性を取り上げます。
(参考 青木泰樹著『経済学者はなぜ嘘をつくのか』(アスペクト社2016)

世界にひとつだけの花

 経済学におけるもう一つの「個人(ミクロ)の想定」は、ケインズ経済学に見いだされます。ジョン・メイナード・ケインズは主著『雇用、利子および貨幣の一般理論』(1936)の中で、新古典派の労働供給の理論である「古典派の第二公準」を否定しました。第二公準とは、雇用が確保されている、すなわち失業の心配のない人が労働時間を自分の都合で決められるという前提の下、最大の満足を得るための条件を示すものです(ただし、ケインズの言う古典派とは、一般的には新古典派を指します)。
 ケインズは、この前提が現実の雇用環境(条件)と全く相容れるものではないとして棄却しました。それは同時に個人の主体的均衡の理論を捨て去ることでもありました。ケインズは新古典派理論から完全に決別したのです。結果的に、ケインズの想定する世界では全員が最高に満足した状態に到達する保証はなくなりました。幸せな人もいれば、不幸せな人もいる。満足している人もいれば、不満をかこつ人もいる。人、それぞれ。もはや全ての個人を同質とみなすことはできなくなりました。ケインズ経済学にミクロ理論はありませんが、強いて言えば、個人(ミクロ)は互いに異質な存在として想定されていると解釈されるのです。経済学が現実に一歩近づいた瞬間です。
 ケインズとは別のアプローチで「異質的な個人」の想定にたどり着いた学者が、ヨーゼフ・アロイス・シュンペーターです。彼は、年々歳々同一の慣行に従う経営者(業主)に対比させて、現状を打破し革新を遂行する異能の企業者の存在が経済発展の起動因であるという資本主義論を展開しました。ケインズ経済学ではマクロの背後に隠されていた異質的な個人が、シュンペーター体系にあっては社会変革の推進者として本質的な役割を担っているのです。このシュンペーターの着想は、処女作『理論経済学の本質と主要内容』(1908)にまで遡(さかのぼ)れますから、ケインズに先行していたと言えましょう。ただし、ここでは細部にこだわらず、異質的な個人の存在を想定している現実的な経済学説もあることを確認して頂くだけで充分です。
 さて、異質的な個人を想定するとミクロとマクロの関係はどうなるのでしょう。主流派経済学の想定する同質的な個人の場合は、ミクロを単純に集計することでマクロ状況を説明できるというものでした。しかし、今度はそうはいきません。個人は全体の「N分の一」の存在ではないからです。社会を代表する主体でもありません。各人各様、価値観も行動様式も違うのです。それゆえ、木(ミクロ)を見るだけで森(マクロ)を理解することはできません。個人をN倍しても全体に一致しないのです。例えば、社会に属する個人AさんのN倍と、同じ社会に属する個人BさんのN倍は一致しないのです。AさんやBさんを観察しただけでは全体はわからないのです。黒字企業と赤字企業が混在する経済の場合、ミクロとマクロの不一致はより明白でしょう。森を見るマクロ経済学が必要な所以です。
 ミクロとマクロの関係は、経済学説の想定する個人の想定によって異なるということがお判り頂けたかと思います。

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西部邁

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  1. 2016年 6月 11日

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