「国家の輪郭」としての靖国神社 — 首相の靖国参拝に求められる「論理」について

11.靖国神社は「ナショナリズム」を理解するための鍵である

 我々人間が、アリストテレスの言ったように本質的に「ポリス的(国家的≒政治的)動物」なのであり、国家(ネイション=ステイト)という枠組みから離れて生きることはできないのだとすれば、その本質を深く理解し確認するためにこそ、靖国神社のような「象徴」的存在が必要とされるのでしょう。靖国神社は、ナショナリティやナショナリズムを理解するための重要な鍵であるという認識の上に、「靖国参拝の論理」を組み立てていかなければならないと思います。
 「象徴」とは、何か別のものを替わりに表現する「媒体」という意味であり、「記号」と言っても構いません。我々は象徴や記号を媒体として用いることで、様々な物事を表現したり、理解したり、記憶したり、人に伝えたりしています。これと同じで、靖国神社という存在や、そこに首相が参拝するという行為には、それを「媒体」として経由することで、我々がポリス的動物としての自らの本性を表現したり確認したりできるという役割があるわけです。
 なお憲法が定めるとおり、天皇も我が国の象徴です。天皇を「媒体だ」などと言うと右翼の人に怒られそうですが、天皇についても似たような解釈ができる可能性があります。私はまだ詳しく考えていませんが、文化寄りの象徴が天皇で、政治寄りの象徴が靖国神社だと理解できるかも知れません。
 靖国神社を「国家の二面性を象徴する存在」として理解しておくと、これまでに行われた様々な論争が不毛に思えてきます。
 たとえば「政教分離」という問題があって、保守派は津地鎮祭訴訟の判決を引いて「憲法の政教分離規定に違反はしていない」と言い、左翼は愛媛県玉串訴訟の判決を引いて「違反している」と言います。しかしその前に我々は、国家というものがもともと世俗性と宗教性を併せ持つ存在であることや、信教の自由とともに国教的な儀式も大事なのだということを理解すべきなのです。
 また、首相の参拝が「公的」か「私的」かという議論もありますが、首相が参拝することの意義が、「国家の二面性」を表現し国民に確認させる点にあることを考えると、「公的」な参拝にしか意味はないということになります。首相個人が私的な感情として何を思っているかは、あまり重要ではありません。
 靖国神社が国家の「二面性」をその境界において象徴する存在なのだということは、どちらか一方の面を強調する勢力と、他方の面を強調する勢力との間で、争いが絶えないのも当然です。保守派は、首相が「当たり前のこと」として「自然に」参拝できた時代はよかったと言いますが、国家というものがさまざまな「二面性」の間で絶えず揺れ動く存在であることと、靖国神社がその象徴であることを考えれば、多少のわだかまりを抱えながら参拝するぐらいで丁度いいのではないかとも思います。むしろそうやって、境界の両側から言い争いを続けることで、国家のあり方に関するバランス感覚が身についていくということだってあるかも知れません。
 そしてもし、こういう二面性を捉えるだけの思想の力や言論の環境を日本人がまだ持ち得ていないのだとすれば、焦って靖国神社に参拝してもあまり意味はないでしょう。参拝するしないで揉める前に、まず靖国神社に参拝するということの意味を深く考えることから始めるべきです。

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西部邁

川端祐一郎

川端祐一郎会社員

投稿者プロフィール

1981年生。筑波大学社会学類卒業。現在、京都大学大学院工学研究科博士後期課程に在籍。

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コメント

    • 萩原 和紀
    • 2014年 1月 03日

    靖国神社の意味合い、2面性、日本人としての精神の多面的な中の靖国神社という公共的な意思の形に表される2面性「同胞の死を悼む」「政治的な利用」を思索しそれを積み重ねて、落としどころを見つけて参拝するならすべきという事だと見ています。
     それと、靖国神社への参拝をこのような形で評してくれることを感謝しています、今まで他のメディアの評論や意見を見ても形はあれども中身がある様な無い様なと言うようなものしかなかった。と思うのは私の勉強不足なのかもしれませんけどね。

    • 川端
    • 2014年 1月 03日

    ありがとうございます。
    私は、上記の本文中では「不十分だ」みたいに書いてますが、一般のメディアの論評自体はすごく参考にしてきました。
    保守派の、一昔前に「新しい歴史教科書をつくる会」とかをやられていた先生方は、ほんとによく調べられて整理されていたと思います。
    ただ、結局のところその内容が、
    ① 年代も高く、もともと靖国神社に参拝するのが「自然」だと思っている人たち
    ② いわゆるネトウヨ的な、外国の悪口を言うことに過剰に熱心な人たち
    のいずれかにしか届かないのではないかという危惧があり、「若い世代の、ふつうの人」が靖国神社をどう受け止めるべきかというのを、考えていきたいと思いました。

    • 川端
    • 2014年 1月 03日

    本文に補足です。

    急に特攻隊に触れたくなったのは(笑)、この坂口安吾の『特攻隊に捧ぐ』という文章が頭にあったからです。
    http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/45201_22667.html

    反戦平和主義者であるはずの安吾が、特攻隊を絶賛しています。
    しかも、単純に絶賛しているのではなくて、ものごとの二面性を丁寧に捉えようとしているところが、すごい文章だな〜と思うのです。

    • 松田 隆
    • 2014年 1月 04日

     川端祐一郎氏のご意見は、一見、もっともだと思われる方が多いかと思いますが、もともと、靖国神社の歴史は主に幕末から昭和そして平成の現代に至るまでの、我が国の近代化に尽くしてきた人々をお祭りする神社であり、特にあの大東亜戦争で戦われた軍人達が死んだ後で、靖国神社で再会しようと誓い合った特別の神社であります。

     その靖国神社には政治問題化するまでは昭和天皇もご参拝され、今も生きている中曽根元総理大臣が参拝するまではここまで政治問題とはなっておりませんでした。

     靖国神社自体が当初から政治問題化する神社ではなく、マスコミが政治問題化したのは事実であり、川端祐一郎氏のご意見はそのことをもって論理破綻されているかと思いますが、如何でしょうか。反論を私のメールアドレスまでお待ちしております。

    • 川端
    • 2014年 1月 05日

    マスコミが政治問題化した歴史は知ってますよ。正確にいうと、参拝そのものが問題視されるようになったのは、中曽根首相の公式参拝の10年前に三木首相が「私的参拝」論を唱えたあたりからですが。60年代の終わりから70年代半ばにかけては、靖国神社法案(いわゆる国家護持法案)でもめていましたので、もっと前から靖国問題は政治問題だったとも言えます。

    松田さんが「政治問題化」とおっしゃってるのはたぶん「外交問題化」という意味でしょう。
    もしそうだとして、外交問題化のきっかけをマスコミが与えた面は大いにあると思いますが、そのことと、もともと問題化し得る要素があったかどうかは別問題ですよね。
    保守派の多くは、そもそも問題化し得る要素がなかったと思ってるみたいですが、私は少なくとも潜在的にはあるはずだと思ったので、その理由を本文で説明してます。
    また、もう既に問題化してるわけですから、「このケンカを最初に煽ったのはマスコミだ」なんて指摘してもあまり意味はなくて、単純に、参拝を推進する側には「正義」があるのだということを説明し続ければいいんじゃないかと思います。

    • 武津
    • 2014年 1月 08日

    よく考察された論文だと思います。
    靖国神社の存在を、いままでにない視点から解剖し展開したことはすごく新鮮でした。
    国家という存在の二面性を論じることは、いまとても必要だと思いますね。

    十分読み込んでから、改めてコメントします。こうした文章はメディアやネットに拡散することを願います。

    • 正直屋
    • 2014年 1月 08日

     中野剛志さんのメールマガジンに導かれて、川端祐一朗さんの論考に触れることができました。はじめてコメントを書かせていただきます。
     私もかねてより、靖国神社の慰霊施設としての性格ばかりを伝えようとすることに対して、またおそらくそれと軌を一にしてのことでしょうが、場所柄をわきまえず「不戦の誓い」を立てようとすることに対して、つよい違和感を覚えてきました。それゆえ、川端さんの論考におおむね賛同することができました。とはいえ、賛同しかねるところもあると感じました。
     おっしゃるとおり、靖国神社はもとより諸国の戦没者追悼施設はいずれも、対外戦争の顕彰施設としての性格を帯びています。しかしだからといって、戦没者追悼のあり方が外交問題化するのは当然だといえるでしょうか。やや飛躍しすぎるのではないでしょうか。それどころかむしろ、川端さんの論考を読み進めるほどに、外国の戦没者追悼のあり方に干渉してはならない理由がそこに書かれているように思えました。
     いかなる国家も固有の権利として、国防力を保持することができます。国防力を過大に保持していれば非難されてしかるべきですが、国防力を保持していること自体は非難されるいわれはありません。そして諸国の戦没者追悼施設は、たんなる慰霊施設ではなく顕彰施設でもあればこそ、国防力の中核あるいは基底に位置するものです。
     櫻田淳氏が靖国神社を「兵士の士気」を支える「安全保障装置」と呼んだのも、それを言わんとしてのことでしょう。川端さんはさらに本質に迫った論証をされています。私なりに理解したところでは、戦没者追悼施設は、国家と国民が生命の保護と死の強要とを交換する、あるいは交換したことを確認する場であるがゆえに、われわれが国民国家を形成しようとする切実な動機と結びついています。
     とすればなおのこと、生命の保護と死の強要との交換関係の外に立つ者が、戦没者追悼のあり方に干渉するのは、その国家の存立の基盤を破壊することにつながりかねません。そして、国家の存立の基盤を破壊することを許しては、国家と国家の間にルールは成り立ちません。戦没者追悼のあり方を外交問題化しないことを、国際社会のルールとみなすべきだと考えるゆえんです。
     日本が諸外国に対して、自前の歴史認識を語り始めるのは、たしかに厳しい覚悟を要するでしょう。それにくらべれば、国際社会のルールに立ち還れと、あるいは国民国家を成り立たせているところの万国共通の仕組みを思い起こせと説くほうが、ずっとやさしいのではないでしょうか。
     長文にわたり失礼しました。

      • 川端
      • 2014年 1月 28日

      コメント有り難うございます。
      おっしゃることは非常によく分かります。私がいいたかったのは、より正確には、「外交問題につながり得るような、心情的・道義的・思想的なわだかまりをかならず内包する」ということです。
      それが明示的な「外交問題」に発展するかどうかは場合によると思いますが、そうはいっても、暗黙のわだかまりはあってもおかしくないだろうということです。殺し合いをしたわけですし、一応お互いがお互いの「正義」を掲げて戦ったわけですからね。

      本文ではごっちゃになっていたので、分けて考えます。

      1.殺し合った「旧敵どうし」のわだかまり
       殺し合いをしたわけですから、当然わだかまりはあります。
       「どっちもどっち」な喧嘩であったとしても、やはり自分のじいちゃんを殺した相手のことは憎いのが普通でしょう。

      2.「正義」をめぐるわだかまり
       本文の中で「そして、戦没者の慰霊や顕彰というような行為は、もともと「正義」をめぐる対立を生みやすい話題だと考えるべきなのです。」と書いたのは、お互いが「正義」を掲げて戦ったということが前提になっています。
       それで負けた結果何が起きたかというと、日本の正義が外交上「否定」されてしまったわけです。

       で、これらのわだかまりが、「対等な対立」であればお互いにもう面倒だからあまり干渉しあわないようにしようというのも成り立つと思いますが、大東亜戦争はそうではないのです。

      正直屋さんが、

      > 国際社会のルールに立ち還れと、あるいは国民国家を成り立たせているところの万国共通の仕組みを思い起こせと説くほうが、ずっとやさしい

      と書かれていますが、日本側は東京裁判で「平和に対する罪」で裁かれたわけで、これって要するに、国際社会のあるべきルールを破った輩ということになっているわけですよね。
      だから、旧連合国(及び、「被害者」であるというスタンスに決めてしまった旧植民地である韓国)の論理を簡単に言ってしまうと、「そりゃ、それぞれの国家には対等な権利があるということで良いと思うよ。でも日本は、そういう国際秩序を破ったのであって、だから俺たちは怒ってるんだ。日本軍国主義は人類共通の敵なんだから、そんなものの象徴である靖国神社に首相がお参りするなんてもってのほかだわ」っていう話です。「靖国神社は、お前らのルール違反の象徴なんだから、そんなところで慰霊することを認めることはできない」という理屈になるわけですね。

      もちろん、この東京裁判史観はほとんど言いがかりだと思いますが、その言いがかりの論理がいまだにけっこう根強く生きているのに、それに正面から反論せずに「あくまで戦没者の追悼です」「戦没者の追悼は各国の内政問題です」とか言っててもそれは無理があると思います。
      日本の戦争は、ヨーロッパ諸国同士の植民地競争のような、「どっちもどっち」の戦争とは認めてもらえていないのです。極論すれば、テロ国家とかならず者国家みたいに扱われているわけですよ(笑)
      原爆を落としたアメリカのほうが、よっぽどならず者だと思いますけどね。

      結論としては正直屋さんのおっしゃる論理が正しいと思うのですが、そういう正しい論理の枠内で捉えてもらえる状況にないのが現状なんじゃないでしょうか。そういう状況で靖国神社に参拝するというのは、最初から「論戦」を仕掛けているのに等しいと思うのですよ。靖国参拝は、「日本はテロ国家ではなかった。ふつうに自国の生存のために戦っただけで、お互い様だ。文句あるか?」っていう主張を、明確に伴う行為だと思うのです。

    • 柴犬
    • 2014年 1月 09日

    素晴らしい考察だと思います。

    私が思うのは、靖国問題とは、靖国参拝にこだわりながら(否定でも肯定でも)
    自分たちが置かれている状況を直視し難く、逃げている日本人の精神性を象徴した問題ではないか? と、考えてみました。

      • 川端
      • 2014年 1月 28日

      コメントありがとうございます。

    • 和田
    • 2014年 3月 25日

    基本的には、靖国神社は国内問題である。そして、天皇の名で死んでくれという施設である。憲法には政教分離原則が存在する。 それにもかかわらず、靖国神社に公的性格を与えようとするのは、立憲主義の否定であり、国家神道の強制を狙うものである。 私は、天皇の名では死ねない。日本を反近代の祭祀国家に逆戻りさせるのはおかしい。   祭祀とは特定の共同主観を込めた宗教的象徴行為である。 祭祀を公的な存在にするということは、直ちに共同主観の強制に繋がる。  アイヌの熊送り、殷・アズテクの他部族生贄、マヤ・インカの自己犠牲・自己生贄、自然神への奉納はいずれも多神教としての自然神に対する賄賂のバリェーションである。  歴史・伝統・文化から自分たちが正統と考える国家神道的イデオロギーを恣意的に抽出し、合法的統治の下敷きにある正当性・妥当性・有効性の観点から物事を判断せず、血統的・系譜的レジテマシー正統にこだわり、それらを自ら奉じない者を異教・異端と言論弾圧する。 靖国を公的存在にするということは国家がそのような方向を目指すということだ。 他国に干渉されるから靖国参拝に賛同するということは、自我を処刑し、天皇に自己犠牲をささげようという究極の自虐である。 

  1. 2014年 1月 08日

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