「女叩き」をやめさせるためにヘイスピ法案、通そうぜ!!
実のところ、本件に限らず「ネット上では女叩きが溢れている」といった指摘が、よくなされます。何しろぼく個人は、「女叩き」そのものよりは「女叩き」を嘆く声の方をこそ盛んに見聞する機会があるほどです。
そして「女叩き」を嘆く言説では、決まって「叩いているのはモテなくカネもないオタクだ」といった憶測が語られます。
そう、今回の事件でぼくがどうにも引っかかっているのは、図式がいつもの、「非のない女性を叩く卑劣な弱者男性」というものへと絡め取られつつある点なのですね。
この問題にはまず、「ネットは無法地帯であり、あらゆる暴言がはびこっている」のと裏腹に、「従来の表の世界では、女性を批判すること自体がタブー視されていた」という側面があるように思います。
本件で言えば、「性的な犯罪の場合、女性側の言い分が一方的に通ってしまう」という状況に対する危機感が、バッシングにつながった面が強いのではないでしょうか。
例えば牟田和恵キョージュの『部長、その恋愛はセクハラです!』を読むと「女性が喜んでいるように見えてもセクハラであり得る、困っているように見えなくとも実はセクハラでショックを受けている場合もある」(P31)とか「第三者の客観的視点でセクハラに見えなくてもセクハラ足り得る(大意)」(p39)とか、果てには『朝日新聞』における上野千鶴子キョージュの人生相談の例を引き、「いったいセクハラなのか違うのか、女性自身がよくわからない、ということでもあります。」(p59)とまで書かれており、正直、こんなのを読まされると、不安でついつい、少女の方を叩いてしまう心理もわからないではありません。
それは上の尾木ママの言も同様で、フェミニストたちは「冤罪ではないかと疑うことが被害者女性への加害だ」として冤罪について語ること自体を封じようとします。
もちろん、被害者の少女を貶めるような言説は厳に慎まれるべきですが、「べき」論をいくら振りかざしても事態は変わらない。それよりはこうした男性側の畏れがそうした現象につながっているという事実について、考えてみる「べき」でしょう。
つまり、「女叩き」とやらには「望ましからぬ」面もあるが、「故なし」とばかりも言いきれない側面があるということです。
実はこれは、「オタク叩き」についても全く同じです。
「オタクがモテないので少女を誘拐したのだ」というストーリーも、「オタクどもは非のない女性を叩いてばかりいる!」というストーリーも、「故なし」と言いきれない面もある。オタクのほとんどは善良なことと思いますが、同時に「女性にモテない性的弱者である」ということも、少しは言える。
言わば「貧乏人などみんな泥棒だ」といった暴論と同様、「因果関係が全くないとは言えないが、乱暴にすぎ、また人権侵害と言われても仕方のない言説」だと思うのです。
つまり、両者の構造は全く同じと言えるのですが、しかし、ご承知の通りに「女叩き」とやらには「女性差別」との評がなされますが、「オタク叩き(これは「男叩き」と呼んでもほぼ同義です)」は「男性差別」とは呼ばれない。
これは丁度、「ヘイトスピーチはまかりならぬ。しかし『日本死ね』は断じてヘイトスピーチではない」とする人々と、「○○死ね」の○○にどこの国名が入ろうが、それはフラットに扱うべきだ」とする人々との齟齬と同じ構造を持っているように思われます。
従来の「差別」観は、この世のヒエラルキーは厳然たるものであり、弱者に属する人々はいついかなる場合も絶対的な劣位を強いられている、との世界観が前提されていました。
しかし、恐らく若い世代は「世の中、もうちょっと相対的じゃね?」との世界観を持っているのではないでしょうか。
それは例えば、乙武さんに対する毀誉褒貶などが象徴しています。彼自身はあまりにも有名人で、普通の障害者と同列には扱えないとは言え、そのこと自体が「強者と弱者なんて、相対的じゃん」とのぼくたちの感覚を支えてもいるのです。
先に書いた「女叩きをしているのは弱者男性」といった物言い、これは左派の素描する「ネトウヨ」像と全くいっしょですよね。
フェミニストや左派が自分たちの「仮想敵」を常に「社会的弱者」に想定するのも、「自分たちのロジックが古びてきていること」「状況が変わったにもかかわらず、自分たちのロジックや運動の方向性をアップデートできないこと」についての、彼ら自身の邪気のないカムアウトであるようにも思えます。
実は「女叩き」そのものがこうしたバイアスに対する反発に起因するところが大であるような気が、ぼくにはしています。本当に「女叩き」を憂慮するのであれば、もう少し風通しのいい議論のできる土壌を作るしかないのではないでしょうか。
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