「マッドマックス」は単純なフェミニズム礼賛映画ではない

マッドマックスは、男性社会の功罪の『功』の部分も強く描いている

台詞としては全く描写されないが、マッドマックス世界のおいては男性社会がもたらした肯定的側面が所々で描かれている。

最も鮮烈なのは水耕栽培のシーンだろう。

水耕栽培についてはこちらのブログに素晴らしい洞察があるのでぜひ読んでほしい。

水耕栽培農家の視点から見る「マッドマックス 怒りのデス・ロード」
(リンク:http://ameblo.jp/a-c/entry-12057538569.html

つまりイモータンジョーは恐怖と支配と性の搾取を行う恐ろしい邪悪な存在であるが、そのイモータンジョーだけがこの荒廃した世界で「生産」を司ることができるのである。

これは中盤、鉄馬の女たちの言う

「種を植えたけど育たなかった」

という台詞の明らかな対比になっている。

またこれも一瞬しか映らないシーンだが、序盤、ジョーが子産み女たちの部屋に押し入るシーンで、女達の部屋にはなんと「グランドピアノと本」が存在するのだ。

木を見ても「でっぱり」としか表現できないニュークスが普通の世界で、これは明らかに卓越した文化的遺物である。

もちろんそれは女たちのことを考えてではなく、彼女たちが将来生む自分の跡継ぎを教育するための投資なのであろうが、少なくともイモータンジョーは文化という貴重品を守り・引継ぐ役割も負っているのである。

男性社会は確かに女性を(そして男性も)抑圧する。
しかし、「生産」「秩序」「文化」などの肯定的な産物も生み出している。

表テーマほど雄弁には語られないが、マッドマックスにおいてはこういった主張も確かになされているのである。

マッドマックスは『女性たちの欺瞞』も描いている

マッドマックスは戦う女たちのある種の「欺瞞」をも描いている。

もちろん前述したとおり、戦う女たちの勇気や強さ気高さも強く描かれている。
しかし、そこにある種の欺瞞があることもマッドマックスは指摘するのである。

マッドマックスが描く欺瞞には2つの種類がある。
「搾取された女たち」の欺瞞と「戦う女たち」の欺瞞だ

「搾取された女たち」の欺瞞については、作中でかなり長い尺を取って描かれている。

逃走の途中、過酷な道中に挫けそうになるフラジールの台詞だ。
スプレンディド(リーダー格の妊娠していた女性)が死んでしまったあと、フラジールはこう叫ぶ、

「私たちは守られてた!私たちはジョーのおかげで良い生活ができた、それの何がいけないの!?」
(We were protected! He gave us the high life. What’s wrong with that?)

もちろんこのすぐあとに、他の女性たちの

「私たちはモノじゃない!」
(We are not things!)

という言葉でフラジールも逃走の意志を取り戻すのだが、これは示唆的なシーンだ。

ジョーの妻たちは、繰り返しになるが貞操帯を付けられ自由を剥奪されていた。つまり「尊厳」を奪われていた。

しかし彼女たちは明らかにこの荒廃した世界の中で特権的な「良い生活( high life)」を送っていたのであり、ある種の特権階級と言えないこともなかったのだ。

それは序盤、彼女らが貞操帯を外したあと、足を洗うために貴重な水を潤沢かつ粗末に使うシーンでも示唆されている。

「私たちはモノじゃない!」確かにその通り、人間には守るべき尊厳がある。

しかしその悩みは、生きるために汲々とする人間が大半のこの世界において、相当な贅沢品じゃないのか?という視点も、マッドマックスには確実に盛り込まれているのである。

「戦う女たち」の欺瞞は、鉄馬の女たちの初登場のシーンで見られる。

彼女たちは砂漠のバイク戦士で、ジョーのウォーボーイズに勝るとも劣らない戦いの専門家である。

僕は「鉄馬の女たちの戦いぶりに勇気づけられた」という女性のコメントをSNSで多く見かけた。

気持ちはわかる。しかし、彼女たちの「狩り」の方法を覚えているだろうか。

鉄塔の上に「裸の女」を置き、道行く人に向かって「助けて!!!」と声をかけさせる。

それに釣られてやってきた(恐らく)男たちを包囲して一網打尽にする、というのが彼女たちの方法である。

彼女たちの狩りの方法は、明らかにダーティだ。
男たちの性欲と、「女性を守るべき」という男性の性規範を利用している。

それはある意味で「女は家庭に留まるべきだ」という女性の性規範を利用する男たちと何ら変わる所がない。

「女でありながら男の土俵で戦う女戦士」は、実は「女の武器」に依存しているのだ。

これは深読みすれば、現代の女戦士たち、つまり日本で言う「バリキャリ女」的な女性の生き方への風刺と見ることもできる。大企業や官庁などのタフな戦場で戦う女性は、いつもフェミニストの羨望の的だった。しかしそんな彼女たちは「女の武器」と全く無縁に活躍できているだろうか。

女性作家である安野モヨコさんの作品「働きマン」などでも、主人公の女性編集者は「女の武器」を使うことへの躊躇いや、それを躊躇なく使う同僚への複雑な感情が描かれていた。またワシントンを舞台に政治劇を繰り広げる米国のドラマ「ハウス・オブ・カード」でもキャリアを得るために身体を使う新人女性記者の葛藤が描かれている。

「バリキャリ女性」を取り巻く環境は日本もアメリカもそれほど変わらないのだろう。

マッドマックスは「女戦士」たちの強さを描くとともに、その「欺瞞」も描き出している。

鉄馬の女たちは現代の女戦士たちのカリカチュアであって、決して「性別を超越した強い女性」という理想像ではない。

→ 次ページ「フュリオサはどこへ向かうのか」を読む

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西部邁

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