「マッドマックス」は単純なフェミニズム礼賛映画ではない
- 2016/3/10
- 文化, 社会
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フュリオサはどこへ向かうのか
ラストシーン、フュリオサは砦に新たな英雄として迎えられ、エレベーターで上昇していく。
しかしフュリオサの表情は決して華やかではない。喜んでもいない。強い不安と戦っているようだ。そんな不安げなフュリオサの表情で、「マッドマックス」は終わる。
マッドマックスは確かに父権主義的男性社会との闘争の物語だった。
女たちはまず逃れ、しかし辺境への逃避ではなく正面から対決することを選び、見事イモータンジョーという男性社会の権化を打ち破り、新たな社会の支配者となる。
ハッピーエンドだ。いや、本当にハッピーエンドだろうか?
ここまで見てきたように、イモータンジョーは、いや男性社会は、多くのものを作り、守り、維持してきた。
生産、文化、秩序、人間が生きる上で最低限必要な全てのものだ。
それらを司っていた指導者、イモータンジョーはもういない。「砦」の連中は新しい指導者に迎合するばかりで、新しい国造りになんの役にも立たなそうだ。
仲間の「妻たち」は美しく勇気ある女性たちだが、支配や生産の方法は何もしらない。「鉄馬の女たち」だって戦い方は知ってるが種を育て育むことはできなかった。マックスは、どこかに消えてしまった。
フュリオサは独りだ。独りでこの帝国を支配し、維持し、守らなければならない。
フュリオサが今後イモータンジョーのようにならないという保証はあるのだろうか?
マッドマックスのこのラストシーンは、女性社会の未来について明らかに強い懸念を示している。
男性社会を批判し、打破することは出来るかもしれない。しかし、女性たちは今の男性社会以上のより良い社会を築くことはできるのだろうか?そのためのビジョンや人材はあるのだろうか?イモータンジョーのように、「責任」を果たせるのだろうか?
これは明らかに現実のフェミニズムの抱える問題に切り込んでいる。
「フェミニズムが格差を拡大させる」という主張は、日本においてもはや耳慣れたものになってしまった。
(http://crossacross.org/ky/?Tradeoffs+among+gender+equality+and+birth+rate)
かつて「急進的フェミニスト」などと呼ばれたヒラリー・クリントンは、大統領選において特に中間層・低所得者層からそっぽを向かれ始めている。
ラスト直前、ニュークスは「俺を見ろ」と言って自爆して果てた。
これはもちろん一義的にはケイパブルに対する愛の言葉であり、「自分のことを覚えておいてほしい」という意味だが、深読みすれば「支配者となる女性たち」へのメッセージと読み解けないこともない。
ニュークスが明らかに「男性社会において使い捨てられた男」としての属性を付与されていることを思えば、こういった読み方は必ずしも間違っているとも言えないように思う。弱者男性は死の直前に「俺を見ろ」と残し死んでいく。
ところでマッドマックスのサブタイトルの原題は「Fury Road 」つまり「怒りの道」である。
そして女主人公フュリオサの名前が「Furiosa」これも「怒り」を表す言葉だ(Furyが名詞形、Furiousが形容詞系)。
つまりサブタイトルの「怒りの道」は「フュリオサの道」と読むこともできる。
道は続く。イモータンジョーを倒し、砦にたどり着いてもフュリオサの道は続くのだ。
男性社会を倒した後、フュリオサはどんな道を拓くのか?
これはマッドマックスを女性側から観た時、本作が我々に問いかけるテーマのひとつと言えるかもしれない。
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