「マッドマックス」は単純なフェミニズム礼賛映画ではない
- 2016/3/10
- 文化, 社会
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マックスは何処へ向かうのか
マックスは、男性社会においてイモータンジョーのような「支配者」でも、ニュークスのような「搾取される弱者」でもない。
知恵と力を持った独立した男であり、女性たちを搾取することもない。
作中では彼女たち(特にフュリオサ)と友情を育み、彼女たちとジョーの戦いに協力する。
マックスは男性社会の中で、搾取することも搾取されることもない独立した存在として作中に存在する。序盤、「血液袋」にされかける(男性社会秩序に組み込まれかける)が、マックスは自力でそこから脱出する。
しかしそんなマックスも自由ではない。罪悪感という過去からの亡霊に苛まれ続けている。
作中、幾度と無くマックスを幻覚が襲う。
女の子のビジョン。「あなたのせいで死んだのよ」。ビジョンを見るたびマックスは苦しむ。
作中ではこのビジョンの原因となった事件について全く触れられていない。
これは何を意味するのだろうか。恐らくこれは、メイル・フェミニスト(男性フェミニスト)が悩み、苦しみ、そして戦いの原動力とする「罪悪感」を描写している。
男性の側から女性のエンパワーメントに助力する「メンズリブ」「メイル・フェミニズム」という運動は、アメリカでは80年代くらいから一定の影響力を持っていた。そこで展開されている思想は
「男性よ、女性に対する加害者であることをやめよう、そうすれば男性は開放される」
といった内容だ。
女性を被害者、男性を加害者として規定し、「男性よ、加害者ではなく女性の友となろう」と呼びかけたのである。
その結果、ジェンダー運動に親和的な男性には宿痾的に「罪悪感」がつきまとうことになった。それは資産家がコミュニズム運動に参加する時、人種差別運動に白人が参加する時、大戦中の戦争犯罪問題に日本人が参加する時、それぞれが心のなかに抱くものと同質のものだ。
「私は構造的な加害者だった。それを償わなければならない」
ラストシーン、マックスはフュリオサたちと袂を分かつ。もちろん喧嘩別れではない。砦には水も食料もある。絆を共にした仲間たちもいる。なぜマックスは砦を出てしまったのだろうか。「自由を求めた」はひとつの安易な答えだが、フュリオサたちに周辺への逃避を拒絶させたのはマックスだった。
恐らくマックスは知っていた。フュリオサたちの未来には多くの苦難が待ち構えていることを。そして、フュリオサたちの社会では自分(男性)は恐らく生きてはいけないことを。
マックスの道も続く。
マックスは、イモータンジョーの社会、つまり権威的男性社会を拒絶する。
しかしそれを乗り越えたフュリオサの社会、女性たちの社会もまた拒絶するのだ。
「今より良い社会」は何処にあるのか。このタフで残酷な世界の中で、イモータンジョーを拒絶し、またフュリオサたちと同化もできない男たちはどう生きれば良いのか。
これは男性側から本作を観たときのテーマと言えるだろう。
まとめ
「マッドマックス 怒りのデス・ロード」は映像的音響的演出的に最高の映画であるばかりか、ジェンダー的な主題に深く切り込んだ作品でもある。
今まで英米圏で軽視されがちだった「女たちの戦い」を意欲的に取り入れ、現在顕現している「男たちの社会」の残酷さや抑圧を鮮烈に表現した。
しかしその一方で、「男たちの社会」の肯定的側面や、「男たちの社会」と戦う女戦士たちの抱える欺瞞も表現し、男女という枠を超えて「我々はどのような社会を築くべきなのか」というテーマにまで切り込んでいる。
単なるアクション・ムービではなく
単なるフェミニズム・ムービーでもない
全人類的な映画である。
なのでこれを読んだ君は今すぐにDVDかブルーレイを複数枚買ってご近所のポストに投函しなければならない。
以上!
“我々はどこへ向かうべきなのか
この荒廃した地をさまよい
より良い自分を求めながら”
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