政治の力で問題解決を
イラクでは当初、諸外国軍は有志連合として活動しており、日本はその有志連合に入っていませんでした。その時には独仏も参加していなかったのですが、その後、任務が治安維持に切り替わると、多国籍軍として独仏も参加。日本は完全に孤立しました。
多国籍軍に参加する場合は指揮を受けなければならないため、「日本はそれはできない」というわけです。しかし、多国籍軍に入らないと治安情報がもらえない。自衛隊の情報部隊は行っていませんでしたから、どこにどんな規模の武装勢力がいるか分からないわけです。
これではさすがに問題だというので形だけ多国籍軍に参加して、本来受けるべき軍司令官の指揮を「憲法違反だから」と受けず、情報だけはもらいますという形にした。
当時、元北部方面総監の志方俊之さんや私がこの件を新聞等で批判したように、「情報はもらうけれど指揮は受けない」などということは通常ありえませんし、自衛隊としてこんなに恥ずかしいことはありません。
多国籍軍は国連認可の取り組みですから、余計に自衛隊は「国際貢献に取り組む姿勢が見られない」と批判を受けることになる。憲法を理由に、各国が尽力している平和維持の取り組みに参加しないという姿勢こそ、まさに「一国平和主義」と言わざるを得ないでしょう。
かつては「理想論だ」と笑われた集団安全保障ですが、国際社会の潮流を見れば、むしろこれからの自衛隊の活動に最も求められる考え方ではないかと思います。
自衛官にとっても、日頃の訓練が国際社会の平和維持や人道的支援に役立つとなれば士気が上がります。単に「アメリカに守ってもらうためについていかざるを得ない」ということではなく、より大きな視点での貢献を打ち出すことで「自衛隊頑張れ」と国民からの応援の声も出てくる。そうすれば、自衛官の士気もますます上がります。
そのうえで自衛官の処遇も見直してもらえるようになれば、自衛官は大いにやる気を出すでしょう。
私たちの現役時代の自衛隊は、まさに「忍」の一字でした。私が防衛大学に入学した昭和三十一年頃、初代統合幕僚長を務めた林敬三さんは「とにかくいまは我慢してくれ」とあちこちで言っていました。
そのうえで、ドイツの有名な詩人であるシラーの言葉を引いて「大いなる精神は静かに忍耐する」と言ったのです。この言葉は非常に印象的でした。なかなか理想どおりにはいかないけれど、心のなかでは大きな理想を持ってその実現に向けてひたすら静かに邁進する。若い頃に聞いたこの言葉を、私はいまに至るまで大事にしてきました。
戦後、政治家は「憲法改正にはあと十年かかる」とこの七十年間、言い続けてきました。「あと十年か」と思い続けて、もう間もなく死んでしまう歳になった(笑)。冗談じゃありません。自衛隊が持てる力を発揮して国際社会に貢献するためには、政治の力が必要です。
自衛官は捕虜になれない!?
特にはっきりさせておかなければならないのは、自衛隊が海外派遣され、敵方に捕らえられて捕虜になった場合の対処です。
七月一日の衆院平和安全法制特別委員会で、辻元清美議員の質問に答えた岸田外務大臣が「後方支援は武力行使に当たらない範囲で行われる。自衛隊員は紛争当事国の戦闘員ではないので、ジュネーブ条約上の『捕虜』となることはない」と述べました。
おそらく、外務省としては憲法九条の「国の交戦権はこれを認めない」(The right of belligerency of the state will not be recognized.)とする条文から、「日本には交戦団体としての資格がないため、交戦団体が当然受けるべき権利も持たない」と解釈したのではないか、と忖度します。
しかし、これは大問題です。捕虜として扱ってもらえないということは、捕まった自衛官が相手側に虐待されようが、拷問されようが、殺害されようが、国として何の抗議もできないことになってしまう。
岸田外務大臣は仮に自衛官が拘束された場合、「国際人道法の原則と精神に従って取り扱われるべきだ」と重ねて述べていますが、自ら「捕虜として扱われない」と明言してしまうことは、自衛官に対して「いざとなったらあなたを見捨てます」と宣言しているに等しい。
敵方が自分たちに有利になるように、「自衛隊は軍隊ではないのでジュネーブ条約の対象外だ」と言うならまだしも、外交のトップが自ら自国に不利になるような解釈を、あえてして見せる必要がどこにあったのか。
「後方支援だから対象外」というのは理由になりません。国際法辞典によれば、捕虜とは敵国に捕らえられる戦闘員をいい、広義の軍隊、戦闘能力を構成する構成員を指し、制服を着用し、基本的には指揮官の下にある文官でないものを対象としています。
自衛隊は明らかに文民ではないし、指揮官もいる。制服も着用していますから、国内的にはどうあれ、一般常識から言って自衛隊は「軍隊」です。
また民間人であっても、軍の装備品や補給に関係する物資を運搬する飛行機や船の乗組員も捕虜になる資格があります。いわゆる後方支援的な「兵站任務」であっても、軍と一体と考えるのが常識です。
独立と平和を守るため
もちろん自衛隊の側も、「隊員が捕虜になった場合」に対する十分な備えはありません。過去には「生きて虜囚の辱めを受けず」との戦陣訓が行きわたっていましたが、そのような考えは排し、捕虜になった場合を想定して「捕虜になった場合の覚悟」を隊員に説く必要があります。
自衛隊は、軍隊は何のためにあるのか。それはひとえに平和と独立を守るためです。
しかし憲法は、平和は強調しても独立については書いていません。「オキュパイド憲法」だから当然です。本来なら、主権回復を果たした一九五二年四月二十八日の時点で憲法も変えるべきだった。それがなされないまま七十年経ってしまったのは問題ですが、平和と独立はどちらも同じくらい大事なものであることを絶対に忘れてはなりません。
明治以来、大陸法に学んできた日本の法律家は、英米法的価値観で作られた憲法も大陸法的に解釈してしまい、「自衛隊という文字は憲法にない。違憲だ」という話になってしまう。日本の一般の法律は憲法とは違って大陸法的に作られており、「書いてあることしかしない」のが基本だからです。
このような矛盾を、憲法を守りたい憲法学者が放置しているのは不思議なのですが、その曖昧な解釈のなかで自衛隊は危機に対処していかなければなりません。こんな苦労をいつまでも自衛官に負わせたままでいいのでしょうか。
いまは圧倒的戦力を誇っているアメリカも、今後は相対的に衰退していきます。日本は独立と平和の両方を守りながら、「アメリカの植民地や属国になるつもりはない。独立国として国際社会と連携し、平和と安定の維持に必要なことに積極的に参加していく」との姿勢を、国を担うリーダーには強く打ち出し、必要な法整備を行ってもらいたいと思います。
本稿筆者 冨澤暉氏の近著『逆説の軍事論』も
あわせてオススメいたします。
この記事は月刊WiLL 2015年9月号に掲載されています。他の記事も読むにはコチラ
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