パッチワーク経済学-リフレ派の幻想-(後編)

リフレ派の幻想②:実物投資と金融投資の混同

 リフレ派の想定する予想インフレ率の上昇が実体経済へ影響を及ぼす経路は、「将来消費の先食い」や「実質賃金下落による雇用増」ばかりではありません。その他に主たる経路が幾つかありますが、そのうちの一つでリフレ政策の根幹である実質金利を通じた経路を吟味しておきましょう。この経路はフィッシャーの方程式(実質金利=名目金利-予想インフレ率)をベースにしたものです。

 フィッシャーの方程式自体は単なる定義式(取り決めの式)であり、何らかの理論を内包するものではありません。それを理論化するためには、この式の解釈が必要となります。例えば、リフレ派はフィッシャーの方程式を右辺から左辺への因果式と解釈する仮説に立脚しています。すなわち、フィッシャーの方程式を実質金利の決定式と考えているのです。その場合、名目金利がゼロであっても、デフレ状況下では実質金利がプラスになっていると考えられます。そこで予想インフレ率を上昇させれば、ゼロ金利下であっても実質金利を低下させることができる、マイナスにすることもできると想定しているのです。

 もちろん、リフレ派とは逆の解釈も可能です。フィッシャーの方程式を「実質金利+予想インフレ率=名目金利」と変形して、左辺から右辺への因果式と解釈するのです。すると今度は名目金利の決定式となります。さらに「実質金利は物理的に一定である(実質金利=資本の限界生産力)」とする新古典派の想定を加味すれば、どうなるでしょう。名目金利は予想インフレ率によって決定されると結論づけられるのです。すなわち予想インフレ率が上昇すれば名目金利も上昇することになります。新しい古典派の世界では瞬時にそれが実現しますが、現実世界ではラグがあると考えられます。また名目金利の上昇を量的緩和によって人為的に抑え込むことも可能です。しかし、「予想インフレ率の上昇は将来的に名目金利を上昇させるだけだ」と考える主流派経済学者やエコノミストは多いのです。

 しかし、ここではリフレ派政策について吟味しておりますので、フィッシャーの方程式のリフレ派的解釈に立脚して話を進めましょう。すなわち予想インフレ率の上昇が実質金利(正確には予想実質金利)の低下をもたらすことを前提とします。さて、実質金利が低下すると実体経済には如何なることが起きるのでしょう。言うまでもなく、経済学では「投資が増加する」と教えています。曰く、投資は実質金利の減少関数であると。では、その場合の投資とは何を意味するのでしょうか。

 経済学における投資とは、一般に企業による実物投資を意味します(設備投資による民間固定資本形成)。もちろん実物投資のためには資金調達をせねばなりません。その資金を賄うのが家計の貯蓄です。貯蓄をすることは、如何なる形態で貯蓄をするかという資産選択をしていることと同じですから、家計は金融投資をしているとも解釈されます。経済学の基本画面は、企業は実物投資主体として、また家計は金融投資主体として存在している状況です。もちろん、直接金融ばかりでなく間接金融も考慮すれば資金供給主体として各種金融機関も含めなくてはなりませんし、企業もまた生産主体として本業に専念するばかりでなく金融投資もしているでしょう。また家計も住宅投資という実物投資をしております。

 そうした細々としたことはあるのですが、現実経済は「実物投資を行う主体と、その資金を賄う金融投資をする主体が対峙している」という基本構造に変わりはありません。さらに言えば、実物投資があってはじめて金融投資が存在するのであって、逆はないのです。したがって、現実経済において実物投資が不活発にもかかわらず、量的緩和のような人為的な政策によって金融投資が活発化する状況は「バブルの萌芽」と考えられるのです。

 さて、リフレ派はフィッシャーの方程式に基づき、予想インフレ率が上昇すれば実質金利が下がり投資が増加すると論じています。その場合、実物投資と金融投資の両方が増加すると考えています。金融投資の増加により株価や債券価格が上昇し、資産効果が期待できるとしております。筆者は予想インフレ率の上昇により金融投資が増加したというよりも、日銀の追加緩和を期待する投機的要因によって資産価格が上昇していると考えております。しかし、経路はともかくとして、量的緩和によって資産価格が上昇することは紛れもない事実です。

 問題は、実物投資が増えるか否かです。経済学の世界では、一般に実物投資は増えることになっております。特に主流派経済学の世界では不確実性が存在しないため、このことは妥当します。しかし、不確実性が存在する現実経済において実質金利の低下が実物投資増へつながるか否かは甚だ疑問です。企業が投資する際に考えることは、投資から得られる予想収益率です。もちろん5年先、10年先の需要動向は誰も見通せません。不確実性があるにもかかわらず敢えて投資をするのですから、それに対する対価が必要となります。企業者精神もしくはアニマル・スピリット(血気)の対価です。それがリスク・プレミアムです。リスク・プレミアムは一定ではなく、先行きの見通しが立たない不況期には上昇します。当然、投資の予想収益率はリスク・プレミアムをカバーするものでなくてはなりません。資金調達コスト(もしくは機会費用)としての実質金利が多少低下したところで、将来にわたって需要が見込める投資機会がなければ実物投資は増加しません。

 経済学の知識と現実の経済現象が真っ向からぶつかり合う主戦場が、この実質金利と実物投資の関係をめぐる問題なのです。現実の企業経営者は、フィッシャーの方程式に基づいて算出される金融市場で決まる実質金利の動向によって実物投資を決定しているのではありません。筆者は長年経済研究に携わってきましたが、そうした経営者を見たことはありません。読者の皆様方はどうですか。ご存知の方はおりますでしょうか。実物投資と関係するのは経営者のマインド(将来予測)なのです。「将来、景気が良くなりそうだ」、「政府の注力するこの産業分野はかなりの需要が見込めそうだ」というような契機があってはじめて、実物投資は実行されるのです。

 経済学の想定する企業経営者は、不確実性のない世界で、投資収益率に対応する投資機会の一覧表を持っていると考えられています。それゆえ調達コストである実質金利が下がれば、それに応じて引き合う(ペイする)投資機会が増えると考えるのです。しかし、現実の経営者はそうしたリストを持っていません。そこが経済理論と違うところです。
 金融市場で決まる実質金利の変動に敏感に反応するのは、金融投資です。資産選択の変更が生じるのです。機関投資家の投機的動きが資産価格の変動をもたらしているのです。実質金利の低下が実物投資を増やすと考えるリフレ派は、経済理論に固執するあまり金融投資と実物投資を混同していると考えられます。

 
 住宅投資にしても同じです。企業の設備投資以上に実質金利以外の要因に影響を受けるからです。特に雇用環境です。終身雇用や年功序列賃金といった勤労者の生活に安定をもたらしてきた雇用制度が徐々に姿を消し、労働者派遣法の制定ならびに対象範囲の拡大によって非正規雇用者が全体の三分の一を占めるようになりました。雇用の流動化を推し進める諸施策が今後とも実行されれば、勤労者の生活の不安定化は避けられません。景気動向によって何時退職を迫られるかわからない状況下で、実質金利が多少下がったところで住宅投資が増えるとは考えられません。住宅投資もまた実質金利ではなく景気動向、特に実質所得に反応すると考えた方が、説得力があります。

→ 次ページ「リフレ派の幻想③:量的緩和の限界と弊害」を読む

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西部邁

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コメント

    • kobuna
    • 2015年 4月 02日

    リフレ派だけではなく、財政政策好きの人達が見ているものも幻想だと思いますよ。
    大規模な財政政策をずっとやれ、とでも言うのでない限り、公共事業などをしていた人達には再就職先が必要になります。
    そしてその再就職先は、緩やかなインフレが続く様な社会でなくては存続が難しい。
     
    では、大胆な財政政策をきっかけにして緩やかなインフレが続く社会になる保障は?
     
    例えば、藤井聡さんによると、政府系の建設投資額と名目GDPには相関性があるそうです。
    藤井さんが用意したグラフを見ると、確かに政府が投資を減らすとGDPも減っていた。
    つまりは、財政政策好きの人が紹介するグラフにおいても政府がお金を使い、
    それが呼び水となって「緩やかなインフレが続く様な社会になる」という事は起こっていないのです。
     
    それなのに「金融政策では駄目だから財政政策を」という様な話がある。
    やがて効果が切れそうだという点では同じだろうに。

      • シェイブテイル
      • 2015年 7月 04日

      kobuna さん

      先進国の政府支出伸び率と名目GDP伸び率には強い正の相関があります。
      http://d.hatena.ne.jp/shavetail1/20150627

      一方、そこでは紹介しませんでしたが、リフレ政策を実行している日本におけるMBと名目GDPそれぞれの伸び率の間には相関性はほぼありません。 決定係数<0.1

      これらから言えることは、名目GDPを伸ばすには中期的に、かなりの規模での財政政策を継続すべきということだと思います。

      私はリフレ政策は経済に一定の効果をもつとは思いますが、それは主に為替を通じたものであり、現在のドル円120円台の水準を超えて、例えば360円を目指しても意味は無いし、上述の通り、名目GDPに効果はないのですから、それだけでデフレ脱却はほぼ無理(理由は青木先生が指摘されています)と思っています。

      アベノミクスも、当初の第一の矢の他に第二の矢財政政策も積極的だったころにはデフレ脱却も射程に入ったか、と思ったものでしたが。

    • シェイブテイル
    • 2015年 7月 04日

    青木先生
    >現実の企業経営者は、フィッシャーの方程式に基づいて算出される金融市場で決まる実質金利の動向によって実物投資を決定しているのではありません。筆者は長年経済研究に携わってきましたが、そうした経営者を見たことはありません

    私もご指摘の通りだと思います。
    経営者たちは勿論金利も考慮には入れますが、投資の適不適を判断するために事業価値をNPVで分析するなどの場合、NPVの値に影響をおよぼす多数の因子のうち、想定される因子の予想値の幅が最終的にNPVの振れ幅に与える影響が大きい因子数個に絞り、不確定要素を減らす努力をします。

    この、投資判断に影響をおよぼす因子として金利が候補にあがることは金融関係企業は知らず、一般企業ではほぼないのではないでしょうか。 実質金利がゼロからマイナス1%に下がったところで、事業価値に与える影響は軽微です。

    それよりも、結果としてデフレ脱却したとすると売上増等々を介してNPVは大きく上昇し、投資に適する事業数は大きく増えるでしょう。 
    先に実質金利低下があって、デフレ脱却というルートは現実の企業の投資を考えると非現実的なルートだと思います。

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